18世紀、イタリアに数学の天才が誕生しました。その名はマリア・ガエターナ・アニェージ(Maria Gaetana Agnesi,1718年5月16日-1799年1月9日)です。微分・積分の教科書を初めて著し、ボローニャ大学教授となったことで知られています。
アニェージは11歳のころ、すでに7か国語に通じており、20歳の時、彼女の父親は自ら資金を出して、娘の論文集を出版しました。この191ページに及ぶ論文集には、哲学や物理、化学、生物学、鉱物学、そして、女性教育の問題などが含まれています。アニェージもこの本で有名になり、様々な学術の交流会や、博学で、権勢がありお金持ちの上流社会の弁論会に参加するようになりました。しかし、祈祷や慈善活動、静かに研究しているほうが好きな彼女は、間もなくして上流社会での日々に飽きたのです。
父親の説得の下、彼女は修道女になることを諦め、研究に没頭するようになりました。10年後、彼女は微分・積分の教科書を著し、その本はローマ教皇・ベネディクトゥス14世の手に渡りました。教皇は「君の著作はイタリアに栄誉をもたらすだろう」と高い評価を送りました。
1752年、アニェージの父親が亡くなり、彼女は隆盛を極めていた事業を諦め、貧しい人たちや老人、女性を助ける慈善活動に主力を注ぎ込みました。そして、自分が持っているいくつかの不動産に貧しい人たちを住まわせたのです。1759年、ミラノで療養院を建てるために、彼女は、教皇から授かった純金のメダルや、皇后から授かったダイヤや高価な水晶の作りものなど、自分の名誉を象徴する物品を売り払いました。
死後、アニェージは療養院の他の15人の病人と一緒に名もなき墓地に埋葬されました。そして、人々は彼女を記念するために、療養院の片隅にある石に、アニェージが貧しい人たちや老人、女性たちのために尽くしてきたことを刻みました。アニェージが数学界で輝き、残した名作や研究結果は、静かに歴史の流れに葬られましたが、しかし、47年間の生涯をかけた慈善事業は広く知れ渡り、その美名は後世に残され、今でも人々に褒め称えられています。
誰でも死後に名を残したいものですが、道徳基準の低下につれて、歴史に名を残せる方法を考える人がどんどん減ってきています。金銭、財産、権力、いずれもその一時、その一世だけのものにすぎず、中には、まだ一生を終えていないのに、後から成長してきた優秀な人物に取って代わられた者もいるでしょう。古今東西の歴史の研究を通じて、ある結論に至りました――善行こそ、歴史に名を残し、いつまでも褒め称えられるのです。
(作者 初衷 翻訳者 天野秀)
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