【掌編小説】牛刀という道具  『荘子』より

東京の小田急線の車内で凶漢が刃物を振り回し、乗客10人を切りつけたという。

犯行につかった凶器は調理用の「牛刀」だと言うから、あきれ果てる。正しく使えば、これほど人を幸せにする道具はないのに、こともあろうに人を傷つけるとは何事か。

言うまでもないが、日本語では、調理につかうナイフのことを包丁(ほうちょう)という。なぜ包丁というのか。そんなことは知らなくても、きちんと料理がつくれれば良いのだが、思いもかけない反社会的なニュースがあり、しかも「牛刀」の名称が聞こえてきたので、牛刀の誇りと名誉のため、ここに一編書き残しておきたい。

昔の中国(現代の中共中国ではない)に、料理の名人がいた。

名を庖丁(ほうてい)という。「庖」は調理場を指す漢字なので、庖丁は「料理人の丁さん」という意味であろうが、このまま庖丁で進めさせていただく。

あるとき庖丁は、梁(りょう)という国の恵王(けいおう)に召されて、御前で牛を一頭、解体して料理することになった。

庖丁が恵王の前へ進み、膝を折り、心を静めて頭を垂れていると、そこへ肥えた黒牛が引かれてきた。庖丁は、その牛へは目を向けず、ただこれから命を絶たねばならない大きな家畜のため、黙してその苦痛の短いことを誓った。

「そちが庖丁であるか」

恵王の問いに庖丁は声を発せず、下げていた頭をさらに二寸ほど低くして「是」の返答を示した。上(しょう)である恵王を敬いながらも、凛としている。

「刀は、どれを使う」

庖丁は、布に巻いて携えてきた自分の牛刀を開き、両手に捧げ持った。刀身二尺ばかりの薄刃で、重そうには見えない。鋭利な光を放つ刃は、恵王にではなく、自身に向けられている。

恵王は、その牛刀を手にとってみたい衝動にかられた。一国の王である自身にできぬことではないはずだが、何やら庖丁の気に押されて、その柄へ手を伸ばすことはひかえた。

「では、始めよ」

黒牛の傍らに立ち、太いその首をなでながら、庖丁は「許せよ」とささやいた。

手にした牛刀が一閃すると、牛の肋骨の間に吸い込まれるように入り、一瞬にして黒牛の心臓を貫いていた。黒牛は、立っていたときの姿のまま、四つの脚を等しく折り、地面に腹ばいになった。まもなく眠りに落ちるように首が下がり、大きな頭の側面にある両眼が生命の光を失った。

庖丁の牛刀が、牛を解体し始めた。それはまるで完成された舞踊を見るようで、動きに無駄がなく、優美である。牛刀の動きが発する音は、音楽の調べのようであった。広げた筵(むしろ)の上に、切り分けられた肉塊が次々に並べられていった。

無駄なく、その元の生命が全て役に立つように、肉も、骨皮も、内臓も、みな用途をもって形を変えたように整列している。傍らでは、肉を煮込んで羹(あつもの)を作るため、巨大な鼎(かなえ)に湯がたぎっていた。

庖丁が牛の解体を終えて、次の調理へ移ろうとした時、恵王は思わず「おお、見事なものだ。技術も、ここまでくるものであるか」と感嘆の声を発した。

すると、今まで声を発しなかった庖丁が、牛刀を置き、初めて口を開いた。

「臣(しん)謹んで申し上げます。私が好むものは道(どう)であり、それは技術以上のものでございます」。恵王は驚いた。この者、口がきけないのではなかったのか。庖丁の言葉は、次のように続く。

「私が牛の料理を始めた頃は、目に映るものは、みな牛ばかりでした。ところが、3年ほど経つと、牛の姿が目に映らないようになりました。今、私は、心だけで牛に向かっております。目では見ておりません。手にしたこの牛刀を、ただ心の作用だけで動かしているのです」

「それは、ひたすら自然の筋目のままに、刃を当てていくだけです。ですので、この通り牛刀は刃こぼれ一つしておりません。私の牛刀は、使い始めて19年になります。これで解体した牛は数千頭に上りますが、刀の切れ味は全く落ちていないのです」

「牛の関節を外すときも、その骨の隙間に、牛刀の薄刃を入れるだけなのです。無理な力を加えずとも、自然に関節は外れます」

聞いていた恵王は、すっかり感服した。無為而無不為(無為にして、為さざる無し)とは『老子』の言葉であったか。無為とは「できない」ことではなく「できないことはない」の意味である。自然のままに牛刀を操る、練達した料理人の境地もまたそれであった。

恵王は、まだ料理の途中であるにもかかわらず、庖丁の手を止めて賛辞を送った。

「善き哉(かな)。余は庖丁の言葉を聞いて、養生の秘訣を知ったぞ」

ほめられて少し困った庖丁が、口ごもりながら恵王に聞いた。

「あのう、料理を続けても、よろしゅうございますか?」

(鳥飼聡)

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