中国伝統文化と日本(六) 漢詩を遺した赤穂浪士
江戸時代の中期、元禄16年(1703)というと今から319年前のことになる。
その2月4日(新暦3月20日)に、前年の12月14日に本所松坂町の吉良邸へ討ち入った赤穂46士(47士のうち寺坂吉右衛門を除く)が、幕命により切腹して果てた。
その赤穂浪士のなかに武林隆重(1672~1703)という侍がいた。唯七(ただしち)という通称で呼ばれることが多かったので、後世の芝居や映画では、多くその名前で登場する。以下、それに倣う。
武林唯七の祖父は、もとの名を孟二寛という。軍人ではないようだが明軍に所属する軍属の一員として朝鮮半島に来ていた。ただし異説もあり、可児弘明氏の論文「孟二寛とその後裔 補遺」を見ると、この人物に関するいくつかの説が挙げられている。
時は豊臣秀吉の朝鮮出兵、いわゆる「文禄・慶長の役」の頃である。孟二寛は浅野幸長(あさのよしなが)の家臣に捕虜として捕えられ、日本へ送られた。
のちに日本へ帰化し、渡辺士式(わたなべことのり)または武林治庵と名乗って浅野家に仕えるようになる。その過程の詳細は略すが、幸長の弟であり、浅野家の分家である赤穂浅野家の初代当主となった浅野長重に仕えるとともに、遠い故郷の杭州の地名である武林を姓として名乗った。
さて、忠臣蔵の武林唯七である。自身の祖父が日本へ来てから約100年を隔てた孫であるから、異国の明人というより、完全な日本人であると言ってよい。
ただ、ここで興味深いのは、人間のルーツというものは、幾代の世を隔てても子孫に精神の形を残すということである。
孟二寛は、孟子の子孫であったともいう。紀元前の孔子の末裔が今でも中国や台湾に存在することは、日本人からすると感覚的に理解しにくいが、宗族主義の中華世界では他人に誇れる最重要の事項となる。
血統の真偽は、勝手な自称が山ほどあるので、実際のところ確かめようもない。ただ、そう親から言い伝えられると、それを自称するようになり、自身も「その通りに違いない」と思い込んで子に伝えるようになる。
武林唯七は、日本の武士として勇敢に戦い切腹したが、その精神の背骨には、異国出身の祖父から父を通じて伝えられた自身のルーツがあったことは疑いない。
その辞世は和歌でなく、46士のなかで唯七ひとり漢詩を遺したという。