中国の宋の時代に、呂蒙正という宰相がいました 。彼の度量は海のように広大であると称えられ、厚い人望の持ち主です。(Wtake400 / PIXTA)

寛容と我慢【伝統文化】

中国では寛容と我慢が、一種の伝統的な美徳として称賛されてきました。孔子は「薄責于人、則遠怨矣」と語りました。曰く、他人を責めないで、理解と寛容の気持ちで接することができれば、自分も悩むことなく、穏やかな心情を保つことができるという意味です。

古代には、「一時の我慢をすれば、そのうちに撃風と怒涛が静まる。一歩を譲歩すれば、広大な海と空が見えてくる」という名句があります。寛容と我慢は、媚びへつらうことや、屈辱と品格を損なうことではなく、深い知恵と度量がある人しかやり遂げられません。寛容と我慢は慈悲であり、人の教養と品格を表し、災いを溶かし、気持ちが楽になり心配事もなくなるのです。

中国の宋の時代に、呂蒙正(りょもうせい)は2人の皇帝の下で、3回も宰相を歴任しました。彼の度量は海のように広大であると称えられ、厚い人望の持ち主でした。

呂蒙正が宰相に就任する前のある日、皇帝の朝礼で、1人の朝士(ランクの低い役職)が彼を指さして、「こいつはなんで朝礼に参政するのか」とけなしました。呂蒙正は見て見ぬふりをしました。周りの官僚らは、あの者の名前を調べるようすすめましたが、「名前を知ったら、多分忘れられなくなるから、あえて知らないほうがよい」と呂蒙正は答えました。

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