貪らないことを宝とする【伝統文化】

の時代に、ある人が一つの宝石を手にいれます。彼はこれを斉の大夫・子罕(しかん)に献上しようとしましたが、子罕はこれを受け取りませんでした。「この玉は宝石の専門家に鑑定してもらった本物の宝石です。あなた様に献上したいのです」といいます。それに対して子罕は、「私は貪りを宝としません。あなたは宝石を宝としているので、もし宝石を私にくれたら、私たちは二人とも、自分の宝を失うことになります。それならやはり各自で宝を保管したほうがいいでしょう」と答え、宝石を受け取りませんでした。

『左伝』から引用した上記の物語の意味は奥深いです。人間はみな「貪りを宝としない」ようにし、すべてのものを欲深く欲しがらず、ただ「満足を知ること」で、初めて「常に楽しむ」ことができます。
「貪」という漢字は「今」と「貝」(宝)で構成されているように、ただ目前にあるものだけを宝とするなら、これを永遠に維持することはできないのです。漢字にはそれを見るだけで人々が道義を学び、常に自分を律することができるようにという配慮が伺われます。

古から今日まで、個人の盛衰や国家の存亡はみな、往々にして「貪り」が原因となっています。人間の財産、虚名、情欲などに対する欲望は、永遠に満たされることのない底なし沼のようです。もしその欲望や貪りの心を自制しなければ、人間は自分の欲望の奴隷となり、金銭や情欲の支配下に置かれてしまいます。一生を費やして、憚ることなく悪事を行い、人間のもつべき道徳規範や尊厳を捨て去り、ひいては個人の命や国家を犠牲にすることもあるのです。

自然のすべては天による按配であり、善悪には報いがあることが永遠に変わらない真理であることを決して忘れてはいけません。貪りに駆られて血眼になって争えば、必ず悲惨な運命になることでしょう。