中国文明が大きく発展した時代――宋
300年続いた宋(960-1279年)は、前半の北宋(960-1127年)と後半の南宋(1127-1279年)に分かれます。唐の時代同様、宋の時代も中国文明の黄金時代とされ、文学、哲学、科学の面で重要な発展がありました。
貪らないことを宝とする【伝統文化】
宋の時代に、ある人が一つの宝石を手にいれます。彼はこれを斉の大夫・子罕(しかん)に献上しようとしましたが、子罕はこれを受け取りませんでした。「この玉は宝石の専門家に鑑定してもらった本物の宝石です。あなた様に献上したいのです」といいます。それに対して子罕は、「私は貪りを宝としません。あなたは宝石を宝としているので、もし宝石を私にくれたら、私たちは二人とも、自分の宝を失うことになります。それならやはり各自で宝を保管したほうがいいでしょう」と答え、宝石を受け取りませんでした。
伝説の仙人・張果老の仙薬で人生が劇的に変わった
中国の北宋の時代、ある少年が放牧時にある老人に出会いました。老人は彼に食べ物と薬を授け、その後、少年は物を食べる必要がなくなりました。疫病が蔓延している頃、老人から授かった薬が使い果たすことなく民の命を救いました……
文広通と神仙の住む不思議な洞窟
古人曰く、「天上の一日は地上の一年」。天国とこの世の間には、時間の経ち方に大きな差があります。日本の昔話に出てくる「浦島太郎」も、戻ってきたらすでに数百年が過ぎていました。今回は、異次元に迷い込んだ不思議な男の物語をご紹介します。
裁判官のはなし
宋の時代、黄という高官のもとに、袁州から2人の友人が訪ねてきた。話をしているうちに、2人は黃に袁州へ一緒に行こうと誘った。黄は固く断ったが、友人たちが強く勧めてくるので、仕方なく一緒に行くことにした。
子孫に『倹約と素朴な生活』を説いた皇帝
劉裕は南朝の宋の初代皇帝である。出身が貧しく、皇帝になる以前も貧困生活を送っていた。そのためか、皇帝になっても根本を忘れず、質素に生活していた。
【紀元曙光】2020年1月27日
和暦でいう建保7年1月27日(1219年2月13日)の夜、鎌倉で変事が起きた。
子孫に『倹約と素朴な生活』を説いた皇帝
劉裕は南朝の宋の初代皇帝である。出身が貧しく、皇帝になる以前も貧困生活を送っていた。そのためか、皇帝になっても根本を忘れず、質素に生活していた。
もっとも美しい下書き 『写生珍禽図巻』
精巧に描かれた24の鳥や昆虫。スズメの親子のさえずりや、今すぐ飛び立ちそうなハチなど、優れた観察眼がうかがえる『写生珍禽図巻』は、五代十国時代(907年―960年)の宮廷画家・黄筌(こうせん)が描いた。
貪らないことを宝とする
宋の時代に、ある人が一つの宝石を手にいれた。彼はこれを斉の大夫・子罕(しかん)に献上しようとしたが、子罕はこれを受け取らなかった。
誤解4:古代中国は遅れていて、専制的だったのでは?
秦の時代(紀元前221-206年)、皇帝は中国最高の統治者となりました。古代中国の文化には、憲法はありませんでしたが、儒教思想が権力を抑制する役割を果たしました。
三寸の舌に五尺の身を亡ぼす
宋の時代、「士大夫」という階級がありました。教養を備え、詩文にも通じ、科挙を通過した官僚を多く輩出した士大夫層は、その後も王朝が「元」「明」「清」と移り変わっても、ずっと中国の支配階級の中枢を占めてきました。宋代の「士大夫」を育てる親の教育は非常に厳しいものだったようです。
六世代にわたる報い
昔の人は「徳」について、よく言及していました。「徳」とは善行を積み、辛いことに耐えること。徳を積めば善果を得られ、悪行を積めば悪報が待っています。科学ばかりが重視される昨今、精神的なことは忘れられがちです。徳と子孫繁栄を何よりも重んじた古代中国の物語が、大切なことを教えてくれるでしょう。
中国磁器の都 景徳鎮
【大紀元日本12月10日】景徳鎮(けいとくちん)は古くから陶磁器の産地として知られ、中国の「磁都」と呼ばれている。また、現在の江西省を流れる昌江の南にあることから、昌南鎮とも呼ばれた。北宋の景徳年間(
中国伝統文化への誘い(六) 宋
【大紀元日本1月6日】 留学から交易の時代へ 鎌倉時代に成立した軍記物語『平家物語』のなかで、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われた平氏の栄華を築いたのが平清盛でした。 時は平安時代の最末期。
「雪の中、程門に立つ」 尊師求学の心
北宋の時代、程顥(ていこう、1032-1085)と程頤(ていい、1033-1107)兄弟は、儒教を道学に高め、後の朱子学の理気二元論に大きな影響を与え、程門と称された。厳格な教