中国磁器の都 景徳鎮

【大紀日本12月10日】景徳鎮(けいとくちん)は古くから陶磁器の産地として知られ、中国の「磁都」と呼ばれている。また、現在の江西省を流れる昌江の南にあることから、昌南鎮とも呼ばれた。北の景徳年間(1004〜1007年)、当時の皇帝・真宗は白磁の透き通るような美しさに魅せられ、磁器の底に「景徳年製」と書き入れ、昌南鎮を「景徳鎮」と改名した。 景徳鎮の磁器生産の歴史は長く、紀元1世紀の後漢時代から陶磁器の生産を始め、南北朝の陳朝時代には大いに盛んになった。

宋代は景徳鎮における陶磁器の生産が最も輝いた時期であり、当時の青磁器と白磁器は芸術性や歴史的価値に優れ、景徳鎮を有名な磁器産地として歴史に刻んだ。更にこの時期には歴史に名を残す青白磁器の製造技法が開発され、後世に大きな影響を与えた。

元代になると、磁器製造技術は更に高まり、14世紀前半に青花という磁器が景徳鎮窯で誕生した。青花磁器は白磁の釉下(ゆうか)にコバルトで絵付けをし、透明釉をかけて高温で焼成した彩画磁器で、その歴史的価値は非常に高い。2005年、「鬼谷下山」という青花磁器はイギリスのオークションで2億3千万人民元(約30億円)で落札している。元代の青花には大作が多く、緻密な作品群はイスラム圏に多く輸出された。その他、この時期にはコバルトを全面にかけた瑠璃釉磁、銅紅釉を全面にかけた紅釉磁なども作られた。

景徳鎮には官窯民窯が存在した。元、明、清代を通して宮廷ご用達の窯、つまり官窯がおかれ、皇帝や皇宮専用の磁器が数多く作られた。一般市場向けには民窯(昔の技術や伝統を受け継ぎ、民衆が使う雑器を焼く窯)があり、中国国内だけでなく世界各国へも輸出された。需要が増し、生産が追いつかなくなると、官民合同の方式が実行されるようになった。これにより優秀な磁器原材料と工芸技術が民窯にも流れ、大きく発展した。明代、清代は中国の製陶業に繁栄をもたらし、景徳鎮は中国陶磁器の世界における地位を確立した。

一方、芸術や美術が低迷する時期、例えば各王朝の末期などには景徳鎮も多大な影響を受けた。共産党が政権を執ってからは、生活用品としての陶磁器に重点がおかれ、以前のような芸術性の高い陶磁器は衰退の一途をたどった。とくに1966年に始まった文化大革命では、一時復興しかけた文化や芸術関係者が農村へと追いやられ、景徳鎮でも多くの技術者が再教育のために追放された。その結果、この時期には完全に文化、芸術復興の芽がつみ取られたのである。

(翻訳編集・東山)