【法顕】玄奘より200年以上前に天竺に仏教の経典を求めた者(1)
古代中国では、異国を最も遠くへ旅したのは商人でもなく、軍人でもなく、文人でもなく、僧侶でした。
玄奘三蔵の天竺行がよく知られていますが、法顕はそれより200年以上早く数万キロ歩いて、天竺(インド)に仏教の経典を求めて行きました。しかし、パミール高原を越えたとき玄奘は30歳、法顕はすでに60歳を超えました。
法顕(ほっけん)は、俗姓は龔、西暦 337 年頃に、現在の山西省臨汾で生まれました。当時平陽と呼ばれていました。平陽郡は羯族(けつ)によって建てられた後趙王朝の統治下にあり、ほどんどの羯族の人は仏教を信じていました。
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