【三蔵法師の巡礼】その1:仏法を求める為に「国禁を犯して冒険へ」

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中国の伝奇小説『西遊記』に登場する唐僧のモデルとして、実在した玄奘三蔵(三蔵法師)には、伝説的な生涯があります。ここでは、玄奘の弟子が記録した玄奘が口伝した彼自身の経歴や、彼の弟子たちの回想録をもとに、さらに史書の記述と合わせて、歴史上の本来の玄奘の姿を再現しようと思います。

玄奘が生まれたばかりの頃、母親は彼が白い服を着て西に向かって行く夢を見ました……母親は「私の息子よ、どこに行くのか」と尋ねると、玄奘は「法を求めに行くのだ」と答えました。

13歳で教法を説く

玄奘は、紀元600年、洛陽から30キロ離れた陳家村(現在の河南省偃師市)に生まれました。

玄奘は名家の出で、父の陳慧は経学者であり、経典に精通していましたが、気質が淡泊で官職に興味がありませんでした。隋王朝の政局の衰退とともに、陳慧は官職を辞して隠遁生活を送り、何度も孝廉(官吏登用科目)の候補に推薦されましたが、病気を口実に断り、古典の研学に専念しました。

玄奘の俗名は陳褘(ちんい)、陳慧の四男として生まれました。8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳褘は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けました。

父の指導のもと、陳褘は歴代の聖賢を尊んで敬い、聖人の振る舞いを学び、不品行な文章を読まず、遊び相手と交友せず、賑やかな市街地にも足を運ばないように生活していました。外で太鼓や銅鑼が鳴っても、演劇で大騒ぎになっても、幼い陳褘は心を動揺させず、懸命に勉学に励んでいました。そのため、彼は温厚で、礼儀正しく、素朴な人に成長しました。

陳褘は5歳の時、毋を亡くして、10歳で父も逝去しました。家族の巨大な変化により、陳褘は幼い頃から人生の無常を感じました。11歳の時、陳褘は次兄に従って洛陽の浄土真宗の僧院に入り、仏法を学び始めました。

隋の時代、僧侶は試験合格後に「度牒」と呼ばれる証明書を授与され、僧侶としての資格が取得できます。ただし、受験者の年齢は18歳以上と定められており、陳褘は若すぎたため試験を受けられませんでした。隋の大理卿である鄭善果は、役所の門のところで待ち構えた陳褘の非凡な気質を見て、なぜ出家したいのかを尋ねました。陳褘は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えました。

鄭善果は、この少年の大志と並外れた気質を褒め称え、名門の出であることを知った上で、特例を認めました。陳褘は度牒を得て僧籍に入り、戒名は玄奘です。

その後、玄奘は寝食も忘れて、仏典の研学に専念していました。13歳で教法を説くまでに成長した玄奘は、一時盛名を馳せました。

名利よりも大切なのは 仏法の真義への探究  

20歳の玄奘は成都で具足戒を受け、正式に僧伽の一員となりました。具足戒を受けた後、玄奘は250項目の戒めを守らなければなりません。

24歳の時、玄奘は仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通し、最高位の法師として「三蔵」の称号を取得しました。

しかし、彼は仏典経書を研学すれば研学するほど、仏法に関する法義が不明確であり、準則や定めがないことに気づきました。玄奘は南北を旅し、中国の半分以上を巡り、各地の名僧を訪ねて教えを求めましたが、佛法に対する理解の度合いが人々異なることに気づき、彼の疑問がますます深まりました。

皇都で名を馳せ、「仏家の千里馬」と称されていた玄奘は、世間の名声や利益よりも大切なのは、仏法の真義への探究だと感じていました。

玄奘は、仏法の真義を探究するよう、天竺に渡って梵語の原典を求めることを決意しました。彼は梵語を学びながら、西遊するための出国許可証の「過所」(現在のパスポート)を朝廷に申請していました。

しかし当時は、中国の唐王朝の黎明期であり、国境を遠方まで拡張できておらず、戦乱や強盗など諸事情により出国が禁じられました。玄奘は何度も申請しても朝廷から許可されなかったため、同行する予定だった僧侶が次々と諦めました。

当時、天竺へ求法に行った僧侶が帰ってくることは非常に少なく、途中で亡くなる人もいれば、他国で病死する人もいました。 水路にしても陸路にしても、 中国からインドへの旅は九死に一生を得るような危険な旅路でした。

ある夜、玄奘は金、銀、瑠璃、水晶でできた宝山が海の中で光り輝いている夢を見ました。しかし、激浪が荒く、乗る船もありません。玄奘が海に飛び込んで、足で踏ん張ってみると、なんと海の中から石の蓮の花が浮かび上がりました。それを見ようと足を上げると、それも消えてしまいました。こうして、彼は蓮の花を踏みながら、あっという間に山の麓にたどり着きました。しかし、その宝山があまりにも峻険で、なかなか登ることができません。玄奘が跳び込もうとすると、そこに旋風が巻き起こり、彼を山頂まで運んでくれました。玄奘は四方を眺めると、視界を遮るものもなく、果てしない大地が広がっていました……

目覚めた玄奘は、神力の加持があればどんな困難でも乗り越えられることを悟りました。菩薩に励まされ、より自信を深めていき、出国許可の「過所」がなくても、国禁を犯してでも西遊しようと決意しました。

貞観3年(629年)、北方が重大な凍霜害に襲われ、朝廷は城門を開き、難民を四方八方に避難させました。29歳の玄奘は老若男女の人波にもまれながら皇都から離れ求めたのは、他の難民とは異なり、食糧ではなく、仏法でした。

しかも、玄奘は許可なく国禁を犯して西遊したため、万が一捕まれば逮捕されて有罪となるので、この先には危険だらけです。

(つづく)

参考資料:

1. 《舊唐書‧列傳第一百四十一》

2. 唐‧慧立本、彥悰箋《大唐大慈恩寺三藏法師傳》

3. 道宣《續高僧傳》《大正藏》

4. 唐‧冥詳《大唐故三藏玄焚法師行狀》《大正藏》

5. 《西安市志(第七卷)‧人物誌》

秦順天