【法顕】玄奘より200年以上前に天竺に仏教の経典を求めた者(4)

(続き)

最後の7年間、法顕は戒律の普及を志し、老齢の身体で翻訳に勤しみました。外国の禅師である佛馱跋院羅(ぶつだつばついんら)と共に、南京の道場寺で『摩訶僧戒律』など、合計24巻、100万文字の経典や律論を翻訳しました。『摩訶僧戒律』は大衆律と呼ばれて、後に中国仏教の五戒の一つとなり、大きな影響を与えました。

法顕が翻訳した『大泥洹経』は当時広く知られました。南京の朱雀門に住む仏教信者は、『大泥洹経』を写本し、読誦して供養を捧げました。後に火事が起こり、家の中の物品はすべて焼けてしまいましたが、『大泥洹経』だけは表紙も焼けずに残りました。この出来事は京城で広まり、人は仏典の不思議さに感嘆しました。

法顕は自身の西域へ旅した見聞を『佛國記』(または『法顕行傳』)として記述しました。この書は陸路で古代インドを旅し、その後スリランカから南洋諸島を経由帰国した行程を初めて実録したものです。

単なる伝記文学にとどまらず、重要な歴史文献であり、西域とインドの歴史を研究する重要な資料となり、また中国南海交通史に関する重要な著作でもあります。

『佛國記』はインドの仏教の古跡や僧侶の生活について詳細に記述されており、後に仏教の古典として引用されるようになりました。あるインドの歴史学者は「法顕、玄奘、馬歓の著作がなければ、インドの歴史を再構築することは不可能でしょう」と述べています。

唐代の名僧、義浄は「古くから神州(中国)においては、仏法に命を捧げる僧侶が存在していた。しかし、法顕法師は新たな道を開拓し、玄奘法師は正しい道を開いた」と述べています。

法顕以前には、中国からインドに仏法を求めに行った僧侶はほとんどいませんでした。法顕は仏教の経典を持ち帰った最初の僧侶であり、梵文の経典を直接中国語に翻訳した最初の人物です。

法顕は生涯を平凡に過ごし、玄奘のように高昌王の強力な支援を受けることもなく、帰国後も朝廷からの厚遇を受けることもありませんでした。しかし、法顕は玄奘より200年以上も前に西域への求法を達成し、中国の仏教史上で初めてインドへ求法に赴いた僧侶となりました。

(完)