(続き)
ある朝、法顕は無畏山の僧伽藍(僧侶が共同で住む庭園、すなわち仏教寺院)に立ち寄りました。突然法顕は商人が白い絹扇で佛像を供養しているのを見て、このような絹扇は故郷の晋でしか生産されていなかったので、親近感を持ちました。十年以上も異国の地にいたことを思い出すと、仲間は亡くなったり異国に残ったりして、法顕は孤独で悲しくなって、涙が雨のように流れました。
しかし帰る時期は見えず、晩年の法顕は広い海を眺めながら、故郷に帰りたい気持ちが湧いてきました。
大海を渡って東に帰る
411年8月、法顕は一人で、長年集めてきた梵文の経典と仏像を背負い、200人以上を乗せられる大型商船に乗って、帰国しました。
しかし、航海に出てわずか2日目に暴風雨に遭遇し、船が損傷し浸水しました。船に乗っていた人々は船が沈まないようにと荷物を海に投げ捨てはじめました。
法顕も持ってきた日用品を捨てました。商人たちが仏典を捨てることを恐れた法顕は、心の中で観世音菩薩を念じ、船が沈まないように仏の加護を祈りました。強風は13日目の夜まで吹き続け、あまりに強い風に、船は小さな島に流されましたが、浸水しているところを修理し、再び航海を続けました。
広大な海に囲まれると、東西を見分けることは難しく、太陽や月、星で方向を識別して船は進んでいきました。途中、強い波が襲いかかったり、海亀や鼈(すっぽん)などの水の怪物が現れました。
約3か月近く漂流して、船はジャワ島に到着しました。そこで5か月以上滞在した後、法顕は船を乗り換えて、広州への上陸を目指しました。
船が出航してから20日以上経ったある夜、突然、見たこともない黒い嵐に見舞われました。船に乗っていた人は非常に怖れ、ヒンドゥー教の信者は「この船に僧侶がいるから、私たちはこの大難に遭っているのだ」と言って、そして法顕を海に突き落とそうとしました。
法顕の帰還を支援した商人は「もしこの僧侶を海に投げ込むつもりなら、私も一緒に投げなさい。漢の皇帝は仏教を信じ、僧侶を尊敬しているから、私は必ず今日のことを訴えに行く。お前たちは絶対罰せられる」と言い、激しく叱責しました。結局、彼らは断念して、法顕は無事でした。
3か月近く海を漂い、食料と水が底をつきかけた頃、船はある岸に漂着しました。法顕は岸辺に見覚えのあるアカザ(灰菜)を見て、自分が中国に戻ったことを知りました。
法顕は小さな船に乗り、河口に沿って上流に向かい村を探して、2人の猟師を見つけました。「ここはどこですか?」と尋ね、自分が青島嶗山に漂着したことを知りました。
猟師は法顕が来たことを太守の李嶷に伝えました。仏教を信じていた李嶷は、ある僧侶が遠方から戻ってきたことを聞き、自ら出迎えに来ました。
求法に献身した法顕は、公元412年に故国に帰還しました。30の小国を経て、中央アジア、南アジア、東南アジアの多くの地域を旅し、その多くの地域は前人未到でした。
同行していた仲間は途中で6人が引き返し、2人が途中で亡くなり、2人が異国に留まり、最終的に故国に戻ったのは法顕だけでした。13年間の求法の旅を振り返って、法顕は「求法した旅を思い返すと、心が動き、汗が流れます!(真理を追求するために辛勤な努力を払ってきたことを示している)」と言いました。
法顕は2年後の秋に晋の都建康(南京)に到着し、5年後に湖北江陵の荊州(けいしゅう)の辛寺にきました。元熙2年(422年)、85歳の高齢となり法顕はここで余生を送りました。
(つづく)
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