西行の旅路では、玄奘は普通の人なら肉体的に耐えられないような危険を何百回も経験しましたが、彼はどのように乗り越えたのでしょうか?(TN / PIXTA)

【三蔵法師の巡礼】その2 求法の途中に顕れた奇跡(2)

砂漠の妖鬼

広大な砂漠は見渡す限りで、境目が見えません。足元に積まれた馬の白骨や馬糞だけが、この先の道を示す玄奘の手がかりでした。

突然、百人ほどの一隊が砂漠を旅しているのが見えました。各人はラクダや馬に乗り、毛皮や毛織物を着ていて、旗と矛を持ち、移動したり止まったりしていました。遠くからはっきり見えましたが、近づいたら消えてしまいました。

もしかして兵士たちが追いかけてきたのか? それとも強盗なのだろうか? 玄奘が迷っていると、空から「恐れるな。恐れるな」という声が聞こえました。その声は玄奘の心を安定させました。後になって、これは妖鬼の幻影だったとわかりました。

烽火台を越える

八十余里進んだところで、最初の烽火台が見えました。衛兵に見つからないように、玄奘は昼間は砂の溝に隠れ、あえて夜に歩きました。夜、烽火台の西側にある泉に行って水を飲み、皮袋に水を入れようとしたとき、突然、矢が「フーッ」と飛んできて彼の膝に当たりそうになりました。それから、さらにまた矢が飛んできました。

「私はです。京師(みやこ)からきた者です。どうか私を射たないでください」

〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

三蔵法師は大声で叫んで、馬を引いて烽火台に向かいました。

玄奘三蔵は西への旅の途中、軍が配置した5つの烽火台を通過しなければなりませんでした。 写真は万里の長城の破損した烽火台。(skipinof / PIXTA)

幸いなことに、烽火台の官吏である王祥はすでに玄奘のことを知っていました。彼は玄奘の求法の決意に深く感服し、世話をしてくれました。玄奘に水と食べ物を与えただけでなく、第四烽火台への道も案内してくれました。第四烽火台の官吏は王祥の一族の者で、善良な人でした。

その夜、王祥の案内に従って玄奘は第四烽火台に到着しました。引き止められるのを恐れた玄奘は、水を汲んで静かに通り過ぎようとしましたが、水辺にたどり着いたとき、馬を降りる前にまた玄奘に向かって矢が飛んできました。玄奘は再び自分の身元を明かし、王祥がここを通ることを許可したと説明しながら烽火台に向かって歩きました。

第四烽火台の官吏は玄奘の話を聞いて非常に喜び、玄奘を泊まらせ、大きな皮袋と馬麦も与えました。また、「師はどうか第五烽に向かわないで下さい。第五烽の人は粗略なので、異図(わるだくみ)が生じるおそれがあります。ここから百里ばかりの所に野馬泉があるから、そこでもう一度水を補給してください」と玄奘に進言しました。

 

〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

馬に連れられた玄奘は野馬泉へ

玄奘と共に西へ向かって進んでいたのは、馬と彼自身の影しかありませんでした。あたりを見わたしても、何かが生存している形跡はひとつもありませんでした。長さが八百余里ほどある沙河(さか)というところには、空に一羽の鳥もなく、地上には一匹の獣すらおらず、また、水草さえ1本もありませんでした。

途中、色々な悪鬼が玄奘の周りを巡り、そのたびに、彼は心に観世音菩薩を念じました。それでも悪鬼を退散させられなかった場合、彼は『般若心経』を読経し、声を発する瞬間に全ての悪鬼が退散しました。これは玄奘を危険から救う宝物でした。

しかし、百余里ほど進んだ玄奘は、路に迷ってしまい野馬泉は見つけられませんでした。

水を飲もうと皮袋を外した時、その皮袋があまりにも重く、玄奘はそれを落としてしまいました。千里も保存してきた水はあっというまになくなりました。

絶望に陥った玄奘は、第四烽火台に戻ってもう一度水を得ようと考え、東に向かって元の道に戻っていました。十里ほど引き返したところで、玄奘はふと正気に戻りました。 

「私は先に願を立て、もしインドに到達しなければ、ついに一歩も東へ帰るまいと誓った。いまどうして引き返しているのか。むしろ西へ向かって死ぬべきである。どうして東方に帰っておめおめと生きられよう」

〈『玄奘三蔵』(講談社)からの引用〉

長さが八百余里ほどある沙河には、鳥も獣も水草さえも生息していません。 写真は砂漠の図。(topic_e5 / PIXTA)

すると、玄奘は馬首を急に引き戻させ、観世音菩薩を念じながら、西北へ歩み続けました。

日中は砂が雨のように降り、夜間は地面がわずかな燐火で揺らぎ、死のような静寂に囲まれます。満天の星の下、玄奘は観世音を念じながら前進していました。

一滴の水も飲まず、四日五晩も歩き続けた玄奘の口は渇き、腹部も焦げたように感じていました。ついに体力も尽き、砂浜に倒れてしまい、馬も立ち上がれなくなりました。

瀕死の玄奘は、観世菩薩の加護を祈っていました。

「この西行の旅路は、財富や名声のためではなく、正法を求めるだけです! 菩薩さまが慈悲深く、苦難から救われますように……」

五日目の夜半に、突然に冷風が吹いてきて、まるで体に冷たい水を掛けられたようで、玄奘の目は輝き明るくなり、馬も立ち上がりました。体力が少し回復したと感じた玄奘は少し眠ることができました。

夢の中に、身長2、3メートルの金鎧神人が戟(ほこ)を持って玄奘の前に現れ、「なぜすぐに出発せず、ここで寝ているのか!」と彼を怒鳴りました。玄奘ははっと目が覚め、すぐに馬に乗って出発しました。

十里ほど行くと、馬が急に暴れ始め、違う道に向かって走り出し、玄奘はどうしても引き戻させられませんでした。

しばらくして、そのまま数里暴走していた馬が急に止まりました。自分が草原に連れて行かれたのに気づいた玄奘は、その近くに水が鏡のように透き通っている池を発見しました。

まさに観世菩薩の慈悲でした!玄奘と馬の命は救われました。

(つづく)

参考資料:

1. 《舊唐書‧列傳第一百四十一》

2. 唐‧慧立本、彥悰箋《大唐大慈恩寺三藏法師傳》

3. 道宣《續高僧傳》《大正藏》

4. 唐‧冥詳《大唐故三藏玄焚法師行狀》《大正藏》

5. 《西安市志(第七卷)‧人物誌》

 

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