【万物有言】 中華文明はなぜ日本の精神に根づいたのか 千年の時を超える記憶

2024年、アメリカの首都ワシントンD.C.にあるスミソニアン国立アジア美術館で、非常に興味深い展覧会が開かれた。題名は「Imagined Neighbors: Japanese Visions of China, 1680–1980」――「想像上の隣国――日本人が見た中国、1680~1980」である。この展示が焦点を当てたのは、17世紀後半から近現代に至るまで、日本の芸術家たちが中国をいかに想像してきたかという点である。

彼らの筆の中で、中国はある時には海を隔てた現実の隣国であり、ある時には古く深い文化の源泉であり、またある時には具体的な地理を超え、ほとんど理想化された精神世界となった。そこには山水があり、高士があり、詩人や聖賢がいる。そして、日本文化の深部にまで入り込んだ一つの美意識と生活様式があった。

これは非常に考えさせられることである。

一つの国が別の国の歴史、地図、戦争、貿易、外交の中に登場することは当然ある。しかし、なぜ一つの文明が、長い年月にわたり別の民族の「想像」の中に住み続けるのだろうか。

なぜ、実際には一度も中国を訪れたことのない多くの日本の画家たちが、瀟湘、西湖、竹林の七賢、陶淵明、李白をよく知り、中国の山水に自らの精神を託し、中国古人の姿を借りて人格や生命境地への憧れを表現したのだろうか。

もし理由が「古代中国が強盛だったから」というだけなら、それでは十分に説明できないように思える。歴史上、強大な帝国はいくつも存在した。武力は人を恐れさせ、富は人を羨望させ、先進的な技術は学びを促すことができる。しかし、ある民族が生命の危険を冒して海を渡り、別の文明を体系的に学び、それを持ち帰った後も世代から世代へと真剣に守り続け、千年後になってなお、そこから人として生きる道、暮らし方、さらには現代社会を運営する道理まで探し続ける――これは「強盛」という二文字だけでは語り尽くせないことである。

海を渡ってきた文明

その答えを探すには、時間をさらに千年以上さかのぼる必要があるのかもしれない。

隋・唐の時代、日本は何度も使節、留学生、学問僧を中国へ派遣した。特に唐代、中国文明はまさに最盛期にあった。

長安を訪れた人々が目にしたのは、壮麗な宮殿や繁栄した都市だけではない。そこには、すでに成熟した文明の全体像があった。典章制度があり、文字と経典があり、儒家の修身の道があり、中国で成熟した仏教文化があり、さらに書法、絵画、建築、医薬、暦法、礼楽、各種の工芸技術があった。

現代人はこれらを政治、宗教、芸術、医学、技術などに分けて考えることに慣れている。しかし当時、中国へ渡ってきた日本人にとって、それらは本来、相互につながった一つの文明全体だった。

どのように国家の秩序を築くのか。どのように人と人との関係を処理するのか。どのような服を着て、どのように礼をするのか。どのように一字を書き、一つの寺院を建てるのか。どのように天地を理解し、どのように生命を見るのか。

それらは互いに切り離された問題ではなく、一つの完全な生活世界を共に構成していたのである。

したがって、遣唐使が本当に日本へ持ち帰ったものは、いくつかの断片的な「中国的要素」ではなかった。

彼らは文明の頂点にあった中国で、自らの国を立て、人を立て、文化を立てるための根基を探していたのである。

もちろん、その後の日本が中国になったわけではない。日本は中国から学んだものを絶えず消化し、転化させ、自らの歴史、社会、伝統と結びつけ、最終的に独自の日本文明を形作った。

そして、そうしたものが本当に日本自身の文明建設に参与したからこそ、遣唐使の時代が終わった後も消えなかったのである。

だからこそ、本当に強大な文明は、他者に受け入れることを強制しない。

その文明自身が、人を自ら海を渡らせるのである。

文化が海を越えることも、決して自然に起こるわけではない。

西暦753年、60歳を超えた一人の唐僧が、ついに日本の地を踏んだ。鑑真である。

当時、日本にはすでに仏教が広まっていたが、整った正式な授戒制度が不足していた。日本の朝廷は唐から戒律に精通した高僧を招こうとし、唐へ仏法を求めに来ていた栄叡、普照らが揚州で鑑真に出会い、日本へ渡って戒を授けてほしいと懇願した。

それ以前に、鑑真はすでに5度の渡航に失敗していた。妨害、暴風、漂流、病気を経験し、12年にわたる困難な歳月の中で何度も渡航を試み、後には両目の視力まで失った。

それでも6度目、彼は再び海を渡った。

日本に到着した後、鑑真は聖武上皇らに授戒し、正式な授戒制度を築き、後に唐招提寺を建立して、日本仏教に深い影響を与えた。

しかし、鑑真と同行者たちが海を越えて持っていったものは、仏教戒律だけではなかった。

この唐僧の足跡とともに、盛唐の高度に発達した物質文明と精神文化もまた、日本へ渡っていった。医薬、本草、書法、建築、仏像彫刻、飲食、印刷、文学……。

現代において「文化の伝播」という言葉を記すのは容易だが、この言葉を鑑真の生涯に照らし合わせる時、文化は勝手に海を渡るのではなく、生身の人間が担い、時には命を賭して護送するものなのだと気づかされる。

こうして歴史の中に、意味深い双方向の往来が生まれた。

日本人が海を渡って中国へ向かったのは「求めたい」と願う者がいたからであり、鑑真が幾度も海を渡って日本を目指したのは「伝えたい」と願う者がいたからである。

一方が求め、一方が伝える。文化はそのようにして海を越えたのだ。
 

なぜ世代を超えて守ろうとしたのか

しかし、本当に驚くべきなのは、文化が伝わったことではない。

伝わった後、それを千年以上にわたって守り続ける人々がいたことである。

なぜ日本は、唐代以降のこれほど多くの文化遺産を保存することができたのだろうか。

人々がそれを大切にし、世代から世代へと受け継いだことが最も重要な理由であるのはもちろんだが、日本特有の地理的環境も無視できない条件を提供した。

日本は中国と海を隔てた島国である。

海は一方で文化交流を遮断しなかったが、もう一方では自然の緩衝地帯となった。

中国大陸で起きた王朝交代、戦争、大規模な社会動乱が、常に同じ形で、同じ時期に日本まで及ぶわけではなかった。

そのため、中国から伝わったいくつかの文化形態は、日本に入った後、比較的独立し、連続的に保存される空間を得たのである。

しかし地理が説明できるのは、なぜ「残る機会」があったのかということまでである。

なぜ人々がそれを「守ろう」としたのかまでは説明できない。

一つの寺院が一度の戦乱を免れたからといって、それだけで千年残るわけではない。

一つの音楽が島国に伝わったからといって、それだけで百代にわたって継承されるわけでもない。

文化を一つの時代から次の時代へ送り届けるのは、結局のところ人間なのである。

今日、奈良を歩いていると、時に奇妙な時間のずれを感じることがある。

古い木造寺院、唐招提寺の金堂、正倉院に保存される大量の唐代の器物――それらを見ると、中国本土ではすでに極めて珍しくなった古代文化の遺存が、海の向こう側で今なお続いていることに気づかされる。

正倉院に今日まで保存されている毛筆の実物は、唐代と同時期の毛筆遺物として非常に貴重であり、千年以上前の中国の筆の形状や製作上の特徴を、現代の人々が知る手がかりとなっている。

織物、楽器、さまざまな日用品もまた、当時の生活を突然、触れられるものにしてくれる。

今日、唐代文化を研究する人にとって、貴重な実物資料の中には、むしろ日本に保存された遺物から手がかりを探さなければならないものさえある。

器物はまだ収蔵できる。

器物より保存が難しいものは、「楽」である。

唐太宗の時代に名高かった『秦王破陣楽』は、後に中国本土では宮廷楽舞としての完全で連続した伝承を失った。しかし、日本の雅楽には、唐代の『破陣楽』と歴史的なつながりを持つ伝統が今なお残されている。

千年以上の伝承を経た今日の日本の楽舞を、単純に唐代そのままの姿だということはできない。

しかし、本当に考えるべきなのは、それが一切変わらなかったかどうかではない。

一つの音が、なぜ千年も生き続けることができたのか。

一本の筆なら倉庫にしまうことができる。

一枚の銅鏡なら箱に収めることができる。

しかし、一つの音楽は、そのようには保存できない。

誰かが演奏しなければならない。

誰かが舞わなければならない。

誰かが学び、誰かが教えなければならない。

一人の人間の人生は数十年にすぎない。

ある人が習得し、それを数十年間守った後、次の世代へ渡す。

次の世代もまた数十年守り、さらに後の人へ渡す。

百年、五百年、千年。

そうして初めて、一つの音は遥かな過去から今日まで歩いてくることができる。

だから、本当に古い音楽を守り続けたものは倉庫ではない。

人なのである。

ここまで来ると、「文化を保存する」という言葉の意味もまったく変わってくる。

古い物を保存するだけではない。

一つの文化を、生きている世代の人々の中へ入り込ませ、彼らの身体と生命を通じて存在し続けさせることである。

礼も同じである。

今日、日本を訪れる多くの人が、そこでの人との接し方の細かな部分に気づく。

客をどう迎えるか。

物をどう渡すか。

どう座るか。

どう進み、どう退くか。

公共の場で、どのように他人へ配慮するか。

こうした礼儀は千百年の発展を経て、すでに日本独自の形を作っており、唐代の礼儀がそのまま保存されていると言うことはもちろんできない。

しかし、その中に表れている秩序、節度、他者への配慮は、古代中国の礼制文明が大切にしたものを容易に思い起こさせる。

なぜ中国の古人は、これほど「礼」を重視したのか。

礼とは、頭の中で何条かのルールを知っていることではないからである。

本当の礼は、最後には身体へ落とし込まれなければならない。

どう立つのか。

どう座るのか。

どう進み、どう退くのか。

年長者と年少者、客と主人、人と人との間で、どのような適切な距離を保つのか。

だから礼は『礼記』の中だけに書かれているのではない。

人の身体にも書かれている。

文化が身体へ入った時、それはもはや外から学んだ知識ではなく、人の習慣と性格になり始めるのである。

日本の職人文化も、ここから理解すると興味深い。

現代人は、日本の職人が仕事に真剣に向き合い、一つの技を数十年続け、一つの家族が何代にもわたって一つの技術を守り続けることを称賛することが多い。

しかし、それを単に「勤勉」や「プロ意識」と理解するだけでは、まだ最も深いところには届いていない。

中国の伝統文化において、技芸とは本来、単なる技術ではなかった。

『荘子』の「庖丁解牛」では、庖丁がこう語る。

「臣の好むところは道なり。技より進めり」

技芸を深く極めていくと、追い求めるものはすでに技巧そのものを超える。

木工職人は木の性質を理解しなければならない。

陶工は水と火を理解しなければならない。

書家は筆と墨を理解しなければならない。

本当に深くまでやっていけば、人は材料をただ「征服」するだけではいけないことに気づく。

理解し、従い、調和しなければならないのである。

心がせわしければ、手もせわしくなる。

心が粗ければ、作る器物も粗くなる。

一人の人間が何十年も変わらず一つのことを丁寧に続けていくことは、同時に、自分の浮つき、いい加減さ、目先の利益を急ぐ心を削り落としていくことでもある。

そこで、人と器物の間には非常に微妙な関係が生まれる。

人が器を作っていると同時に、器もまた人を形作っている。

表面では器を修めているが、実際には心も修めている。

技芸が極まれば、そこには修行にも似た意味が生まれる。

文化はここまで来ると、外にある知識ではなく、本当に人の手の中に住み、人の性格の中に住むようになるのである。
 

 『論語』がそろばんと出会った時

もし中国伝統文化の日本における生命が、古寺、雅楽、伝統工芸の中だけにとどまっていたなら、それは「よく保存された古代文化」にすぎなかったかもしれない。

本当に注目すべきなのは、日本が近代社会へ入った後も、古い思想の一部がなお働き続けたことである。

明治維新以降、日本は大規模に西洋を学んだ。

銀行、鉄道、株式会社、近代工業、資本市場が急速に整備され、唐代とはまったく異なる社会が生まれた。

まさにその時、日本近代の著名な実業家・渋沢栄一は、『論語』とそろばんを並べた。

そろばんは経済、経営、利益を表す。

『論語』は道義と人としてのあり方を表す。

渋沢が向き合っていたのは、実は現代社会が今日に至るまで避けることのできない問題である。

資本は人に「どう富を作るか」は教えられる。

しかし、どの金を稼いではならないかは教えてくれない。

市場は価格を形成できる。

しかし、何が「義」であり、何が「信」なのかを自動的に教えてはくれない。

法律は人間の行動の最低限の境界を定めることができる。

しかし、すべての人の背後に常に立って監視することはできない。

だから現代経済も、最後には古い問いへ戻ってくる。

制度を動かすのは、いったいどのような人間なのか。

もし人の心に道徳的な境界がなければ、どれほど精密な制度を作っても、その隙を探そうとする者が現れる。

もし誰もが利益だけを問い、信義を問わなくなれば、社会は互いを防ぐためにますます大きなコストを払わなければならない。

そろばんは利益を計算できる。

しかし『論語』は、利益の境界を定める。

渋沢栄一は、『論語』で近代経済制度を置き換えようとしたのではない。

近代制度がすでに成立した後もなお、古い儒家の伝統から、人を律する道徳的尺度を探そうとしたのである。

これは非常に意味深い。

千年以上前、日本人は中国から経典を持ち帰った。

千年以上後、日本がまったく異なる近代経済社会に直面した時にも、なおそれらの経典から答えを探すことができた。

なぜだろうか。

制度は変わる。

技術も変わる。

産業も変わる。

しかし、人が向き合ういくつかの根本的な問題は変わらないからである。

人は今も、利益と道義に直面する。

信用と欺瞞に直面する。

欲望と節制に直面する。

何をしてよいのか、何をしてはいけないのかを、なお答えなければならない。

本当に生命力を持つ文化は、ある特定の時代でどのように暮らすかだけを教えるものではない。

まず人そのものを形作る。

そして、社会が人によって構成される限り、その文化は生き続けることができるのである。

この千年以上の歴史を一本につないで見ると、時に奇妙な感覚が生まれる。

まるで冥冥のうちに、一双の見えない巨大な手が、すでに後世のために壮大な配置をしていたかのようである。

中華文明が最盛期にあった時、一群の文化の種が海を越え、日本へ運ばれた。

遣唐使たちはもちろん、一千年以上後、中国本土がどのような戦争や変遷、そして伝統文化の巨大な劫難を経験することになるのか知るはずもなかった。

鑑真もまた、自分と弟子たちが日本へ持っていった文化が、いつの日か後世の人々があの時代を再び理解するための重要な証拠になることなど知らなかった。

当時の人々は、ただ目の前のことをしていただけである。

ある人は求めに来た。

ある人は伝えに行った。

ある人は寺を建てた。

ある人は経典を書き写した。

ある人は器物を作った。

ある人は音楽を学んだ。

後の人々は、祖先が残したものには守る価値があると感じ、さらに受け継いだ。

一代から一代へ。

百年が過ぎた。

五百年が過ぎた。

千年が過ぎた。

一人ひとりは、自分の手の中のほんの小さな一事を成し遂げただけのように見える。

しかし、その小さな出来事が千年という時間の中でつながると、どの一世代だけでは完成できない一つの大きな事業を、共に完成させたかのように見えてくる。

そうすると、人は問わずにはいられない。

これは本当に、ただの偶然の連続なのだろうか。

それとも、人には見えない歴史の深部で、互いに無関係に見える人と出来事が、もともと何らかのより深いつながりを持っていたのだろうか。

中華伝統文化が後に巨大な劫難を経験するより前に、貴重な文化の種の一部はすでに遠方へ播かれていた。

故土で一部の記憶が断絶を経験した後も、それらは異郷で成長を続けていた。

人が自分の時代の中で見るのは、一つ一つの偶然にすぎないかもしれない。

しかし、視野を千年まで引き延ばして見ると、一部の偶然は次第に「按配」の姿を帯びてくる。
 

千年後、再び自分自身を見つける

こうして今日のもう一つの興味深い現象を見ると、また違った理解ができるかもしれない。

なぜ、これほど多くの中国人が日本旅行を好み、とりわけ京都や奈良のような古都を好むのだろうか。

もちろん、そこには多くの現実的な理由がある。距離、交通、食事、景観、買い物、サービスなど、すべてが答えの一部である。

すべての人の旅行先の選択を文化心理だけで説明することはできない。

しかし、もう一つ、とても注目に値する感覚がある。

このように捉え直せば、今日見られるもう一つの興味深い現象に対しても、異なる理解ができるかもしれない。なぜこれほど多くの中国人が日本を旅行することを好み、とりわけ京都や奈良のような古都を好むのか。距離、交通、飲食、風景、買い物、サービスなど、現実的な理由は多々あり、すべての旅行者の動機を文化的心理に帰結させることはできない。しかし、見過ごせないある感覚が存在する。一部の中国人が奈良の古寺を訪れ、木造建築の軒下に立ち、京都の庭園に入り、漢字、屏風、器物、古くからの節句や礼儀を目にし、一つの技術が何代にもわたって守られている姿や、現代生活の中に依然として残る古い秩序や節度を目にした時、言葉にしがたい親近感を覚えるのである。

不思議なことに、それは異国文化に接した時の「新鮮さ」とは少し違う。

むしろ、久しく離れていたものに再会したような懐かしさに近い。

もちろん、それらはすでに日本文化の一部である。

千百年にわたり、日本自身の伝統、社会、美意識と混ざり合い、すでに独自の枝葉を伸ばしている。

しかし現代中国で育った人にとって、その中のあるものは、自分でもうまく説明できない生命の深部の記憶に触れることがあるのかもしれない。

ただ「ここは静かだ」と感じる。

古寺が美しいと感じる。

器物が大切に扱われていると感じる。

人と人との間に節度があると感じる。

なぜ自分が感動するのか分からない。

自分が何を探しているのかさえ分からない。

それでも、あの伝統が別の形で再び目の前に現れた時、心の方が先にそれを見分ける。

千年以上前、日本人は海を渡って中国へ来て、自らが仰ぎ見た文明を探した。

千年以上後、一部の中国人は再び海を渡って日本へ行き、そこに保存された古寺、庭園、礼楽、器物、人々の振る舞いの中に、自らの文明がかつて持っていたものの一部を再び見る。

歴史はここで、非常に意味深い一つの輪を描く。

当時は、日本人が中国へ「求め」に来た。

今日では、中国人が日本で無意識に「探している」ことがあるのかもしれない。

これは、郷愁というものが、必ずしも故郷の一つの山、一つの川、一軒の古い家だけを懐かしむものではないことも教えてくれる。

一つの民族もまた、自らが失った文明に対して郷愁を抱くことがある。

ここで再びスミソニアンの「Imagined Neighbors」に戻ってみると、なぜ中国が日本の芸術家の筆の中で、現実に存在しながら、同時に現実を超えた精神世界となったのかを、さらに深く理解できるかもしれない。

日本人が最初に向き合ったのは、現実の中国であった。

彼らは海を渡り、文字、経典、礼楽、仏教、建築、芸術、医薬、工芸を学んだ。

しかし、それらが日本へ入った後、永遠に「外国文化」のまま存在したわけではない。

千百年の時間の中で吸収され、変化し、次第に日本文明そのものの一部になっていった。

それは人の目へ入り、美意識となった。

人の手へ入り、技芸となった。

人の身体へ入り、礼となった。

人と人との関係へ入り、信義となった。

人の心へ入り、徳となった。

さらに深く入れば、それは一人の人間が「どう生きるのか」「どう自分を安定させるのか」「なぜ生きるのか」を理解するための文化的資源にまでなった。

ここまで来ると、中国はもはや地図上の隣国だけではなくなる。

詩書の中の中国。

山水の中の中国。

人格理想の中の中国。

精神の中で何度も振り返ることのできる一つの世界となるのである。

本当に別の民族の想像の中に住み込むことのできる文明とは、まずその民族の生活の中に入り、最後には人の生命の中にまで住み込んだ文明なのである。

そしてさらに意味深いのは、千年以上が過ぎ、その文明の精神が故土で断絶を経験した時、かつて遠くへ運ばれ、そこで根を張り成長した文化の種が、今度は故郷の人々が自らの文明を再び知るための道標になっていることである。

もしかすると、だからこそ歴史が今日まで進んだ今、私たちはなお、古寺、古楽、器物、文字、人の振る舞いを改めて見る必要があるのかもしれない。

それは、それらを日本から「取り戻す」ためではない。

本当に戻るべきものは、決して物ではない。

戻るべきなのは、人の心が伝統をもう一度理解することなのである。

一つの国は、別の国の隣国になることができる。

しかし一つの文明は、山海と千年を越え、別の民族の想像の中に住み、人の生命の中に住むことができる。

そして長い歳月の後、静かに待つ。

故郷の人が再びそれを見つけることを。

そして、自分自身をもう一度見つけることを。