【大紀元日本6月10日】金満福(53)は、広州から来た料理人であった金八財を祖父にもつ横浜中華街の料理人だ。既に、西門を入った裏路地の名店「満福楼」の店主として、いささかの社会的名声と成功を収めている身であったが、祖母と母は日本人なので、自身の体には中国大陸の血液は四分の一しか流れていないし、嫁も日本人なのでますます「大陸の大人風」は遠のくばかりだ。
満福自身は、日本で出生し、山の手の中華学院で教育を受けた在日中国人三世なので、自身のアイデンティティーはと問われると「…日本人に近いのかもしれない…」と思うのであるが、民放の取材などを受けると、「…祖父の八財は、苦労して出国し…食は広州にあり、といいまして…その親子三代の広東麺の秘伝の味は門外不出の企業秘密…かくかくしかじか」と受け答えるしかない自分を発見し、自身の成功の元が故郷の味にあることを再認識する。
横浜中華街は、神戸の南京町、長崎の新地と並ぶ日本の三大中華街の一つで、その華僑の大半が広東の出身者だ。横浜中華街には250軒以上の中華料理屋が立ち並ぶが、その他の中菜「四川」「山東」「江蘇」などに比して、その半数以上が圧倒的に広東料理を出しているのも頷ける。
祖父の八財は、大陸本国では「広州麺食天下一」とまで謳われた名手で、当時南京政府の蒋介石にまで料理を出した経歴があったが、大陸の動乱を目にして祖国を出て、日本の横浜に新天地を求めた。そのしょうゆ味をベースにした「広東麺」は、フカヒレスープとともに瞬く間に評判になり、自分の店を構えるほどになったが、太平洋戦争の空襲でまたすべてを失ったのだった。
そんな祖父の口癖は、「…名声は当てにならない。政権が変わればすべてが裏目になる…金も究極的には当てにならない。法律の変更次第で没収されるからだ…しかし、身についた技術、これだけは誰も奪えない。だから生きるすべをしっかり学びなさい」というもので、まだ幼かった満福のまぶたに、厨房で逞しく中華なべを振る祖父の姿が焼きついていた。
そんな祖父からの伝統の味は、日華事変から太平洋戦争の試練を経て、父から満福自身へと継承され、一日限定600食の広東麺を売りつくすと、さっさと午後二時頃には、夫婦で店じまいをするのが日課であった。しかし、ここ10年で明らかに客層が変わってきた。大陸のそれも広州からの観光客が目立ってきたことだ。「食は広州にあり」というように、舌の肥えた広州人が来店して「好喫(ハオチー)」(おいしい)といってもらえると、祖父の技術が改めて正確であったのだと感謝に耐えない。
大陸では、_deng_小平が政権を執ってから「改革開放」が叫ばれ、広州は広東省の省府として、深セン(shenzhen)、珠海(zhuhai)、アモイ(xiamen)、海南(hainan)、汕頭(shantou)らに先駆けて経済特別区になり、そこの住民も思いがけない経済的な恩恵を受けて海外旅行を楽しめるようになった。
満福は、店の暖簾を下げると、午後の気だるい喧騒を横目にしながら、いつものように関帝廟に赴き「…いつも商売がこのようにうまくいくのは、先祖の御蔭、関帝のおかげです…」と毎日の日課のようにして祈るのであった。「…ああ、旧暦の5月13日は関帝廟のお祭りかぁ…もうじきだなぁ」。横浜の関帝廟は、何度か焼失したが、そのたびに日ごろ反目しがちな大陸派と台湾派が一致団結して金を出し合い、再建にこぎつけた。満福は、横浜港からの潮風を嗅ぐたびに、なぜだか神仏のことに北も南もないものだ、民族の分断もないものだとしみじみ思うのだった。
(続く)
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