【大紀元日本10月22日】
牀前、月光を看る。疑ふらくは是れ地上の霜かと。頭を挙げて山月を望み。頭を低れて故郷を思ふ。
言うまでもなく、日本でも有名な李白(701~762)の、その中でも最もよく知られた一首「静夜思」である。詩意の解説は要としないだろう。
有名なこの詩には、実は「悩み」もある。日本人もよく知っているこの一首を、例えば中国人との友好の場で披露すると、たちまち中国側から「不対(違う)」とクレームがつけられてしまうのだ。この「不対」は、日本人には時としてなかなかきつく聞こえるのだが、もちろんそれは中国の人々の表現が明確かつ直接的なだけであって、他意はない。
では、どこが「不対」なのか。中国ではほぼ百パーセント、この詩の第一句を「牀前明月光(牀前名月の光)」、第三句を「挙頭望明月(頭を挙げて明月を望み)」と詠んでいる。一方、日本では、中学高校の国語教科書をはじめ(一部例外はあるが)、概ね冒頭に引用した形で教えられている。
端的に言えば、これは今日まで漢詩が伝えられたテキストの種類の違いであって、私たち日本側も決して間違っているわけではないのである。
日本では、明代の李攀竜(り はんりょう)が編纂したとされる漢詩の選集『唐詩選』が、本邦の大学者・荻生徂徠が高く評価したこともあり、江戸時代の中垣xun_ネ降ひろく普及して、学者や漢文教師だけでなく漢文好きの庶民にも大いに愛読されていた。
これに対して中国では、清初の頃までは『唐詩選』も読まれていたのだが、清代中ごろの乾隆時代に蘅塘退士(こうとうたいし)の編纂した『唐詩三百首』が出ると、中国で初学者が使用する唐詩テキストの主流はこちらへ移ったのである。
ここに、李白「静夜思」の 語句の認識について、日本と中国で若干の差異が見られる一つの原因があると考えられる。つまり同じ詩の語句が、日中それぞれの主流テキストで異同があったということなのだ。
中国人にしてみれば、「わが中国の李白の詩を、日本人が間違って伝えては困る」ということで、厳しくも友情あふれる「不対」のつもりなのだろう。
それに対して日本側に所属する私は、テキストの異同という物理的要因もあってこうなった、ということを理路整然と説明できる中国語の力を、なんとか身につけたいものだと日々思っている。
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