【漢詩の楽しみ】 偶成(ぐうせい)

【大紀元日本12月11日】

少年易老学難成


一寸光陰不可軽


未覚池塘春草夢


階前梧葉已秋声

少年、老い易く、学成り難し。一寸の光陰、軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢。階前(かいぜん)の梧葉(ごよう)、已(すで)に秋声。

詩に云う。若い時はうつろいやすいもので、あっという間に歳をとる半面、学問はなかなか成就しない。だからこそ、わずかな時間さえも無駄にしてはならないのだ。池のほとりに草が芽吹いたような春の夢にうつつを抜かしていれば、たちまち階(きざはし)の前の青桐の葉が落ちる秋になってしまうぞ。

1年が終わろうとしている。この時期、果たして年初の目標のうちどれだけ達成できたかと毎年自問するのだが、満足して合格点をつけられた例がない。一寸の光陰を軽んじてばかりの我が身を、今年もまた恥ずかしく思う。

この一首の詩で、どれほど多くの日本人が、有り難くも耳の痛いお説教をされてきたか知れない。なにしろ南宋の大学者・朱熹(1130~1200)の作であるから、その権威が格段に違うのだ。それをまた漢文の老先生が、訓読の抑揚で朗々と詠む。叱られる弟子や学生たちはたまったものではないが、仰せの通りなのだからぐうの音も出ない。

朱熹は、むしろ朱子(しゅし)と称されることのほうが多い。「子」は本来、男子の美称である。ならば朱子とは朱姓の男子の総称であるはずなのだが、この「朱子」だけは朱熹その人以外は指さない。それほど朱熹は中国哲学史上、孔子孟子と並ぶ特別な存在なのである。

この朱子の学問すなわち朱子学は、漢代以来の訓詁学によって説明されてきた儒教を脱し、新しい思想体系として儒教の原典を解釈し直し、確立させた学問である。

日本の徳川幕府はこれを国政の基本とした。正確に言えば、朱子学のなかの臣民が守るべき節義を説いた大儀名分論を、幕藩体制の維持安定に役立てようとしたのであるが、ともかく太平の世の日本武士に、武芸だけでなく漢学という学問が奨励されることになった。

とは言え、徳川幕府が、中国や朝鮮のような徹底した試験地獄のシステムを採らなかったことは、儒教文化圏の劣等生であった日本にとっては誠に幸いであっただろう。

「偶成」とは、偶然に思いついてできた詩、というようなニュアンスであろうか。この朱子先生の気まぐれの一首を、日本人はとりあえず「お説教」ととらえ、怠惰な自身への励みにしてきた。文化受容の程度としては、このくらいで及第としていただきたい。 

(聡)