【大紀元日本4月29日】奈良県桜井市、三輪山のふもとに月山日本刀鍛錬道場はある。道場の主は月山派五代刀匠月山貞利さん、奈良県無形文化財保持者である。
4月2日その道場で「トン テン カン」「トン テン カン」とリズミカルに響く槌音を聞いた。貞利さんの父で重要無形文化財(人間国宝)、月山貞一(さだいち)さんの17回法要にちなんで刀鍛冶、鍛錬の様子が一般に公開されたのだ。真っ赤に焼けた鉄を3人の刀工が交代に叩いて鍛える。熱した鉄を叩いて伸ばし、二つ折りにしてまた熱するという「折り返し鍛錬」が繰り返される。鉄に含まれる不純物を取り除く作業である。
月山刀鍛冶の始まりは、鎌倉時代に遡る。山岳信仰の出羽三山(山形県)、月山の山麓で修験者の護身刀を主に作る鍛冶集団があったという。月山刀鍛冶の源流である。江戸時代には、月山での作刀活動は見られなくなったが、松尾芭蕉の「奥の細道」に月山鍛冶についての記載が見られるところからも、広く月山の名が流布していたと考えられている。
幕末、商業の中心地で、多くの刀工が集まり作刀の盛んであった大阪に一人の刀工が月山伝を携えて上り作刀を始めた。現在の大阪月山派日本刀の初代、月山貞吉である。貞吉は明治3年に没するまで多くの刀工を育てたが、なかんづく近代の名工ともいわれる月山貞一(さだかず)は傑出していた。鎌倉時代から続く月山の伝統である「綾杉肌」とよばれる美しい模様が浮き出た地肌に、精巧な刀身彫刻を施すという新しい伝統を加えた。明治9年の廃刀令で、多くの刀工が廃業に追い込まれる中、作刀をあきらめなかった貞一は明治政府から帝室技芸員に任命され、日本刀の伝統を後世に伝えるという使命を受けた。
月山伝は、貞一(さだかず)からその子貞勝、更に貞一(さだいち)と確実に受け継がれ、現在の刀匠、貞利、貞伸へと伝えられた。貞一(さだいち)の時代、占領軍の政策で作刀が禁じられるという試練もあったが、それを乗り越え、貞一(さだいち)は人間国宝に指定され月山伝を守り抜いた。
月山日本刀鍛錬道場の若き後継者、六代月山貞伸さん(31)に話を聞いた。貞伸さんが父、貞利さんに入門したのは14年前、大学入学と同時の入門だった。子供の頃から、槌音を聞き、祖父と父の仕事を間近に見てきた貞伸さんにとって、将来刀工になるというのは自然なことだったという。しかし、貞一(さだいち)さんの苦難の時代をともに生きた貞利さんは、決して貞伸さんに刀工の道を勧めはしなかった。「刀工が作刀を禁じられたわけです。刀工である前に、5人の子供の父親ですから、それは大変だったと思います」と貞伸さん。両親の忠告を容れ大学に進学し、同時に刀工の修業も始めることとなった。
武士がいるわけでもない現在、刀工に将来はあるのだろうか、という単純な疑問をぶつけてみた。「昔に比べれば、需要は極端に少ないです。しかし、美術品として日本刀を求める方はおられます」。古来、日本刀には、武器という一面ともう一つ、精神という抽象的なものを具現化したもの、つまり、高い精神性を表す美術品という側面があるという。三種の神器に始まり、長い血統の証としてうけつがれた名刀など武器として使用されたわけではなく、精神文化の支柱だったのだ。
日本刀を称賛する人は、国内のみならず海外にも多くいる。海外の主要博物館の多くに日本刀が収められているという。月山歴代の日本刀が収められているニューヨーク、メトロポリタン美術館で2009年10月から2010年1月まで、「Art of the Samurai」という展覧会が開かれた。侍芸術を見せる世界初、世界最大の展覧会だった。会場では、月山日本刀鍛錬道場の作刀の様子が映像と写真で紹介された。
「私は職人ですから、100年、200年後の評価に耐えうる刀を作りたいと思っています」。「それに、刀を一人でも多くの人に知ってもらえるよう、働きかけることも私たちの仕事でしょう」と静かに語る。来る6月1日から7日まで東京日本橋高島屋で「刀工月山貞利展」が予定されており、貞伸さんの作品も展示されることになっている。それにしても月山という大きな名前を受け継ぐのは重責である。「いやー、刀を作るのは楽しいのです」と貞伸さん。記者に日本刀の鑑賞眼はないが、六代目の人物を大器の人と見た。月山派日本刀に頼もしい後継者がある。
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