名君が語る善念とは

【大紀元日本6月2日】中国史上、名君として有名な清の第4皇帝・康熙帝(こうきてい、1654-1722)は、心を修めることを重視した。彼が遺した「庭訓格言」の中に、善念についての解釈が書かれている。

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人には心があり、念が生じる。生じた念は、正、あるいは不正なものに分かれる。もし、その一念が不正なものであれば、人はそれを知り、正すことができる。もし人がそのようにして常に心を修めていれば、彼は自ずと正しい道を歩んでいるだろう。『尚書』曰く:「聖人であっても、妄念が生じれば行いを制御できなくなる。一方、常人であっても、妄念を克服することに専心すれば、聖人になることができる」

行動を促すような念でなければ放任しても構わないが、行動を起こさせる念が生じたら、それが正か悪か、見極めなければならない。古代、人々は自己の念を修めることを重視していた。もし念が生じたら、それが人の心に取り付いて感情となる前に、その念を認めるのか、排除するのかを決めた。この方法により、人々は比較的に容易に心を修め、道を踏み外すことは少なかった。

人として、内的な喜びを追求するとよい。内的な喜びがあれば、自然に縁起がよくなり、福が生じる。なぜならば、内的な喜びは善念を生じさせるからだ。一方、人が憤怒している時、悪念を生じやすい。古人は言った。「人に善念が生じれば、たとえ彼が何の善行を積んでいなくとも、吉神がついてくる。同様に、人に悪念が生じれば、たとえ悪事を働いていなくとも、凶神が彼についてくる」

生じた心は善念か、悪念か。その心を常に修めることさえできれば、すでに道にいる。

(翻訳編集・郭丹丹)