【大紀元日本11月26日】手機(てばた)を使って、「秋篠(あきしの)手織り」を体験した。奈良市の「なら工藝館」で行われた秋の恒例「伝統工芸フェスティバル」の一環で、1時間で小さなテーブルセンターを1枚織り上げるという体験講座である。指定された時間に行くと、10台ほどの手機が並ぶ教室では、すでに4人の女性が慣れない手つきで作業をしていた。講師は手織りに魅せられて、この道一筋に50年という小野瑛子さんだ。
早速、織機の前に座り、作業手順の説明を受ける。そして、作業開始となる。右足で踏み板を踏んで、交互にセットされている経糸を上下に分ける。できた隙間に舟形をした緯糸(よこいと)の糸巻をスナップをきかせて滑り込ませる。勢い余って糸巻が左側へ飛んで床に落ちた。「黙って働いてくれる道具たちだから、やさしく扱ってあげてね」と小野さんから注意を受ける。次は、左足を踏んで糸巻を右方向へ滑らす。左右の手と脚がそれぞれ別の作業をし、それが右、左と交替するのだ。頭では理解するが、「トントン カラリ」とはなかなか行かない。手脚がリズムを覚えるまでには時間がかかる。それでも、予定の1時間と少々で、藍の濃淡の格子柄が美しいテーブルセンターが出来上がった。
洋の東西を問わず、人が道具を使い始めて間もなく、植物繊維から糸を作り、それを織って布を作っていたという。今までに発見された世界最古の布はエジプトの麻布で、紀元前4500年頃の物とされる。日本でも経糸と緯糸のバランスのとれた縄文前期のものと考えられる布が発見された。
以来、土地の気候・風土・環境に合わせて様々な布が織られてきた。日本の伝統織物も北海道から沖縄まで、古代に起源を持つもの、中国から伝わった絹織物、南蛮との交易によって伝えられた渡来織物なども取り入れて、あるいは独自の物を発展させ、各地に脈々と伝えられた。今では、機械化の波に押されて、あるいは生活様式の変化で、後継者が絶えていくものも多い。
「秋篠手織り」のルーツはどこにあるのだろうか。作り手から見た手織りの魅力
小野瑛子さん(撮影・Klaus Rinke)
、あるいは難しさはどんなところにあるのだろうか。「小野工房」の当主、小野瑛子さんに話を聞いた。
なかなか骨の折れる仕事ですねと言うと、「手足がリズミカルに動くようになれば、これが一番ラクで楽しい仕事なんですよ」「この作業をするまでには、まず、染めの仕事があります。次に、柄を考えて組織図を作り経糸をセットしなくてはなりません」と手機を動かすまでの長い複雑な工程をさらりと説明してくれた。
「秋篠手織り」のルーツは、奈良の秋篠の地にあるわけではないという。大正末期から昭和の初めにかけて、柳宋悦などを中心に「民藝運動」が起こった。生活の中から生まれた実用性と素朴な美しさを備えた工芸品にスポットを当てるものだった。岡山県にある「倉敷民芸館」の初代館長であった外村吉之助(とのむらきちのすけ)が創設した「倉敷本染手織り研究所」で秋篠手織りの種が育まれたのだ。
「私は外村先生の孫弟子になります。夫は直弟子でした」。瑛子さんの夫、小野佳二さんが外村吉之助の薫陶を受け、民藝の精神と手織りの技術を秋篠の地に根付かせたのだ。1959年に奈良市秋篠町に秋篠手織り「小野工房」を開き、創作活動を続けながら後継者を養成した。佳二さん亡きあとは、瑛子さんが工房を引き継ぎ、着尺、帯、テーブルクロス、生活小物などの制作を続けている。
「手織りの仕事は、織るだけではないのですよ。柄に合わせて糸を染めます
小野瑛子作 吉野織テーブルクロス(撮影・Klaus Rinke)
」「染めに使う植物は、地主さんの許可を得て、季節、季節の木の葉などをいただいて染めるわけです。今年、染められなかったら、来年まで待たなくてはいけません」「染めた糸も、すぐに使えるわけではないのですよ。最低2年は寝かせておきます」「染めてすぐはギャルの色なんです。何年も寝かせて、ようやく大人の色になります」。色が変化するわけではないが、色調が落ち着くのだという。
手織りの魅力は、「これで終わりということがない。これで充分と思わせてくれないところが魅力と言えるでしょうか」「仕事がいろいろと教えてくれます」。ひとつ織り上げるごとに学びがあり、次への挑戦になるという。
奈良県美術展や伝統工芸展にも入選している小野さんだが、「目指すところが違うような気がして、今は出品していません」という。自分を主張する作品よりも生活に根差した作品を大切にする「民藝」の心を受け継ぐ小野さんの姿勢なのだろう。
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