【大紀元日本12月3日】
黄昏独立佛堂前
満地槐花満樹蝉
大抵四時心総苦
就中腸断是秋天
黄昏(こうこん)に独(ひと)り立つ、佛堂の前。地に満つるは槐花(かいか)、樹に満つるは蝉。大抵(たいてい)四時(しじ)、心は総(す)べて苦なれども、就中(なかんずく)腸(はらわた)の断たれるは是れ秋天。
詩に云う。たそがれ時、一人で佛堂の前に立った。槐(えんじゅ)の花は散り敷いて地面に満ち、樹上では、短い命の蝉たちが鳴きしきる。およそ四季とは、それぞれ悲しみをさそうものだが、とりわけ、はらわたがちぎれるほど悲しいのは、この秋だろう。
白居易(はくきょい、772~846)の作。平易な表現で、日本の平安文学にも大きな影響のあった白居易は、白楽天という字(あざな)のほうが知られている。
この詩も非常に分かりやすい。技巧に走らず、素直な心情を吐露するところなどは、作者の人柄が窺われるようで、何とも親しみがわく。
白居易は40歳の時、母を亡くした。この詩はちょうど母の服喪のために郷里へ帰っていた時期にあたる。同じ頃、白居易は官界のなかでも不如意で、孤独な境遇にあった。
秋の夕暮れは、とりわけ人をもの思いにさせる。
白居易のこの詩から約四百年の後、鎌倉初期の日本に『新古今和歌集』が出た。枯淡と幽玄の極美を表現した『新古今』の秀歌を挙げればきりがないが、秋の夕暮れを詠った名歌といえば三夕の歌(さんせきのうた)を思い出す。
寂蓮「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」。西行「心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮れ」。藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」。
表題の詩と「三夕の歌」が直接的に関係をもつわけではない。ただ、日本人が白居易の詩を熱愛した理由は、その感性において、世界文学のなかでも稀有なほど深く共感したからとみて間違いはないだろう。
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