【大紀元日本6月15日】ある日、孔子は息子の伯魚にこう言った。「人を夢中にさせ、飽きさせないものは、おそらく学問しかないだろう。容姿が悪くとも、力がなくとも、家柄が貧しくとも、頼れる人がいなくとも、末代まで名声を残せるのは学問があるからである」
子路、米を担ぐ
子路は孔子に言った。「重い荷物を担ぐ人は休憩の場所を問わない。家が貧しく年老いた両親がいる人は官位の高低を選ばない。両親が健在だった頃、私の家は貧しく、野草を腹の足しにした。50キロの道のりを歩き、米を担ぎ両親に仕えたのだ。両親が亡くなってからは、楚国に行き、役人になった。外出の際には馬車が用意され、屋敷の倉には米が十分にあり、食事には魚も肉もあった。しかし両親と共に野草を食べたり、両親の為に米を担いだりすることはもう二度とできないのです」
孔子は「親が健在な時は心を尽くし、親が亡くなれば絶えず思い出し、子路は本当に親孝行だ」と言った。
君子に会う機会は二度とないかもしれない
孔子は郯国に行く途中で程子と出会い、馬車を止め、話が弾んだ。孔子は子路に「一反の絹を持って来なさい。程子に渡すのだ」と言った。子路は納得が行かず、「君子の付き合いも、女子の嫁入りも仲人がいなければ贈り物はしないというではありませんか?」と言い、動こうとしない。孔子はもう一度、子路に取りに行くよう言いつけたが、子路は依然として断った。
孔子は言った。「詩経を読んだことがないのか?『道中、偶然にもこんな美しい女子に出会い、願い事の一つを果たした』。 程子は有名な君子であり、いま贈り物をしないと今後はもう会う機会がないかもしれない。私の言う通りにしなさい」
忠と信で人間社会をわたる
衛国から鲁国への帰途、孔子は大きな川に道を遮られた。川は険しい瀬が多く、流れが急だった。この時、ひとりの男が川を渡ろうとするのを見て、孔子は慌てて男を止めた。「こんなに深く、流れの急な川を渡るなんて、危険すぎる。止めた方がいいですよ」。男は孔子の忠告に耳を貸そうともせず、楽々と川を渡りきった。孔子は不思議に思い「どうやって渡ったのでしょうか。特別な方法でもあるのでしょうか?」と聞いた。男は、「私はただ川を渡れる自信があり、そして全力をあげて渡っただけだ」と答えた。孔子は弟子たちに言った。「聞こえましたか?自分を信じることは『信』であり、全力を尽くすことは『忠』に通じる。忠と信を貫けば、こんな恐ろしい川をも自在に渡れるのです。まして人間社会なら、なおさらです」
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