【はじめに】
『論語』は儒教の経典の一つであり、『大学』『中庸』『孟子』と並んで「四書」と称される。この四書に『詩経』『尚書』『礼記』『易経』『春秋』の五経を合わせたものが、古代の儒生が必読とする「四書五経」である。
明らかに『論語』は四書の首位に位置しており、その重要性は言うまでもない。しかし、『論語』は孔子の弟子および再伝弟子たちによって編纂されたものであり、主に語録体や対話体を用いて孔子とその弟子たちの言行を記録したものである。そして、そこには家庭、社会、国家統治、教育などのあらゆる面において「徳を重んじ、仁義を核心とする」という孔子の思想が凝縮されている。
一体なぜ、これほど重要な書物が、もっと文才あふれる筆致で書かれなかったのか。孔子のために編纂に携わった弟子たちのなかに、古今に通じ、文章の才に溢れ、典拠を引くことに長けた者がいなかったはずはない。なぜ、あえて最も素朴な語録体を採用したのか。

その答えは単純である。根本的な目的を考えればよい。孔子は周の礼楽が崩壊し、諸侯が覇を争い、道徳が低下して天下が動揺し、民が苦しむ様を目の当たりにした。そのすべては人心の腐敗が招いた結果である。彼は弟子を率いて諸国を巡り、徳政を説いて回ったが、いたるところで壁に突き当たった。やがて彼は気づく。文明を継承し、天下を太平にするためには、人心を正し、仁義を説き、徳を重んじて善を推奨し、教育を興して天下を教え導くことこそが根本の解決策であり、それ以外の手法はすべて対症療法に過ぎないということに。徳なき者が才能を持つことは、国家と民の滅亡を加速させることに他ならない。
そこで彼は教育を興し、門徒を広く受け入れ、「有教無類(教えるにあたり門戸を閉ざさない)」を実践した。その意図の深遠さを門徒たちは理解し、後世へと記録を継承したのである。その目的は、人としての道徳規範を伝えることにあった。これにより後世の教育の根本目的を定め、教育の方向性を見失わせないようにしたのである。
だからこそ、弟子たちは飾り気のない語録体を採用し、孔子思想の最も真実な姿を留めた。この書を読み、孔子の真の思想を理解し、読書や学習の目的が「理を明らかにし、徳を重んじ、善を守る」ことにあると知ることで、初めて人は方向を見失わなくなる。こうした道徳の基礎を築いて初めて、他の書物を読んだ際に是非を弁別でき、自身の技術や能力を正しい道のために用いることができるようになるのだ。
孔子が教育の根本に置いたのは、人としての道徳規範を確立することであり、弟子たちはその教育の真意を理解していたからこそ、それを何よりも優先して記録に残した。
これを核心として記録された内容は、当然ながら、人間が主要な分野や様々な状況で直面する問題にどう向き合うべきか、当時の孔子や高弟たちがどう向き合ったかという、人々の啓発に非常に心を砕いたものとなっている。
これらの内容は、一つの綱領のごとく、学習と教育の方向を指し示し、家庭、社会、朝廷の官僚が正道を歩み、人道から逸れないよう導くものである。これこそが、『論語』が儒学教育の経典の首位に置かれている理由である。
しかし時代の推移や観念の変化、とりわけ現代における教育や学習の解釈は、徳育を根本とする核心から完全に逸脱している。加えて、中国共産党の文化大革命期における孔子と伝統文化への誹謗、批判、意図的な歪曲により、本来の意味が極めて明確であったはずの『論語』は、読み解く際に多くの矛盾を生むようになった。そこで私は浅見を記すこととした。拙い意見がきっかけとなり、経典が埃をかぶることなく、本来の姿を取り戻し、再び光を放つことを切に願うものである。
『論語』は全二十篇ある。「学而(がくじ)」は『論語』の第一篇の篇名である。『論語』の各篇は、通常、冒頭の二、三文字を篇名とする。「学而」篇は十六章から成り、その根幹には『学ぶことの本質』が据えられている。教育の目的、ひいては読書や学習の最も根本的な目的とは、書物を通じて道理を理解することであり、「理を明らかにすること(明理)」が肝要である。この点がまず説かれなければ、篇の始まりとは呼べない。冒頭には必然的に、宗旨を明らかにすることが求められる。最初の一文で核心を突く必要があるのだ。さらに、紙のない時代においては字が黄金のように貴重であり、重要でない内容を記録することは不可能であった。
それでは、「学而」篇の第一章を見る。
【原文】
子曰:「學而時習之,不亦說乎?有朋自遠方來,不亦樂乎?人不知,而不慍,不亦君子乎?」
【翻訳】
孔子曰く。「絶えず書を読み、聖賢から人としての道理を学び、徳行を積んで善を成し、それを常に実践する(習とは、生活や仕事の中で繰り返し実践することを意味する)。これは実に愉快なことではないか。志を同じくする者が遠方からやって来て、共に学問を論じ合うのは、実に喜ばしいことではないか。相手が自分より才智に劣り、あるいは愚直であったり、議論の際に言葉が偏っていたりしても、私は決して怨んだり怒ったりせず、常に仁善たる心を保ち続ける。このように振る舞うことができてこそ、徳ある君子と言えるのではないか。」

【解釈】
宋代の著名な学者である朱熹はこの章を「道に入る門、徳を積む基」と高く評価している。また、この章の三つの文は人々に非常になじみ深いものである。惜しむらくは、現代人はこれらを現代の教育観で理解してしまっていることだ。「勉強や授業の後に復習して練習するのは嬉しいことだ」などと捉え、三つの文がそれぞれ独立しており、前後の脈絡がないと考えている。
三つの文は孤立しておらず、脈絡があるとする説もあるが、その解釈は明らかに孔子の本義に背いている。「学」を自分の学説、「習」を社会に採用されることと解釈し、「自分の説が社会に用いられれば嬉しい」「名声が天下に広まり、遠方から友がやって来て議論するのは楽しい」「たとえ社会に受け入れられず、理解されなくても、自分は怨まない。これこそが君子である」と説くものだ。

この解釈は一見筋が通っているようだが、明らかに現代的、あるいは邪道な功利心を含んでいる。聖人であり、師として模範である孔子が、経典の冒頭でこのような功利的な言葉を口にするだろうか。君子のあり方をこのように解釈するのは明らかに不合理である。でなければ、なぜ孔子は顔回の「貧に安んじ道を愉しむ」生き方を大いに賞賛したのか。孔子が望む君子に功利心は不要である。嬉しいこと、楽しいこととは「道」であり、「道を愉しむ」こと、すなわち心を修めて徳を重んじることである。学んだ道義を用いて自らの言行を律することが目的であり、学問を研究して自説を広めることで名を売るためのものではない。
本章で学習を「愉快なこと」としているのは、心を修め徳を積むことを楽しむことであり、優れた者を見て自らを省みることを楽しむことを指している。しかし、決して他人にも自分と同じ高い基準を強要するわけではない。たとえ他人の境地が低く、見識が自分に及ばなくても、他人を排除してはならない。これこそが「有教無類」の原点である。地位の上下や貴賤、見識の如何を問わず、一視同仁(等しく公平に扱う)なのである。
これは、孔子が修養を重んじ、自らに厳しく律したことを反映している。最後が「君子」という言葉で結ばれていることからも、冒頭で明確に示された通り、学習の目的とは絶えず心を修めて善に向かい、高尚な君子となることにあるのである。
【注釈】
(1)子:古代中国において地位や学識のある男性への尊称。『論語』の「子曰」の「子」は、すべて孔子を指す。
(2)学:現代の解釈では周代の礼・楽・詩・書などの伝統文化典籍の学習を指すことが多い。実際には人としての道を学び、徳行を重んじ、優れた人物を見て自らもそうあろうとすることを指す。
(3)説:音はyuè。「悦」と同義。愉快、うれしいこと。
(4)有朋:「同門を朋と曰う」。同じ師の下で学ぶ仲間、つまり志を同じくする者を指す。
(5)楽:悦とは区別される。旧注には「悦は内にあり、楽は外に現れる」とある。
(6)人不知:「知」を「智」に通じさせる。「智」は才知や見識を指す。世間では才能を愛し、愚かな者を蔑むことが多い。人が智(才能)でなくとも、嫌ったり憎んだりしないという理解がより合理的である。
(7)慍:音はyùn。心に喜ばず、微かに怒りや怨みを抱くこと。
(8)君子:ここでは孔子の理想とする高尚な人格を持つ人を指す。

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