伏羲(伏義、伏儀という表記もある。前3350年?~前3040年?)は、古代中国の伝説と神話に登場する神、または伝説上の帝王である。伏羲は風姓、別名に宓羲、包犠、庖犠、伏戯などがある。伏羲に関してはさまざまな説があるが、「三皇」の一人に挙げられ、中華民族の人文の始祖と崇拝されることにほぼ異論はないようである。
『史記』三皇本紀によれば、伏羲氏は風姓であり、燧人氏に代わって、天位をついで王となった。母を華胥といった。華胥は雷沢(雷沢の場所に関しては、山東省や山西省などの説があるが、甘粛省にある説がもっとも有力と思われる)で神人の足跡を踏んで、伏羲を成紀(甘粛省)で生んだ。伏羲は蛇身人首で、聖徳があった。
伏羲は仰いでは天象を観察し、俯しては地法を観察し、あまねく鳥獣の模様と地の形勢を見きわめ、近くは自身を参考にし、遠くは物事を参考にして、はじめて「八卦」を画し、かくして神明の徳に通じ、万物をその本質に適合しておさめた。
伏羲は、書契をつくって結縄の政治にかえた。はじめて婚姻の制度をたて、一対の皮をたがいに交換するならわしを定め、漁猟を民に教えた。かくて、民はみな帰服(伏)したので、宓(伏)犠氏という。また、牛、羊、豚などを家畜として養い、それを庖厨で料理して、犠牲として神祇や祖霊を祭った。それゆえに庖犠ともいう。そして、三十五弦の瑟をつくった。龍の瑞祥があったので、官名に龍という字をつけ、その軍隊を龍師といった。木徳の王であり、春の季節に合う行事をあげて、政令として記した。陳(河南省)に都した。太山(泰山。山東省)に登り、封を行った。王位について百十一年で崩じた。(野口定男ら訳:『史記』三皇本紀。中国古典文学大系10、平凡社、昭和50年12月初版第9刷)
『白虎通義』などにも、伏羲に関する類似の記載がある。前記のほか、伏羲はまた、製鉄や武器の製造などを民に教え、蜘蛛の巣に倣って鳥網や魚網を発明し、猟を民に教えたとある。
伏羲は、家畜飼育、調理法、漁撈法、狩り、婚姻の制度、楽器、結縄など、人間の生活に必要な基本的な文明文化をつくると共に、「八卦」を書いたことによって中国の文化・思想の原点も確立した。そのため、伏羲は「神明の徳に通じ、万物をその本質に適合しておさめることができた」のである。
このように、中国文明史上、特殊な貢献があったため、伏羲は中国の人文の始祖と崇め敬われ、中原地方では誕生日とされる陰暦の三月十八日に、伏羲を祭る風習が現在まで続いている。
伏羲と女媧との関係については諸説ある。『史記』三皇本紀には、伏羲の位を継いだのは女媧とされる。女媧も蛇身人首で、風姓であったという。『山海経』などの古書と民間の伝説によれば、女媧は伏羲の妹であり、人類を繁殖するために兄弟で結婚したという。そして、出土した絵画に、蛇身人首で交わっている男女が伏羲と女媧とされるが、確たる証拠はない。しかし、陰陽一体という構成、そしてそれぞれの手には文明の象徴または文明を創造する道具あるいはそれの規則と思われる矩(直角定規)と規(コンパス)を持っていることが実に興味深い。
(文・孫樹林)
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