召使いがいても自らタネをまき、母を介護した漢文帝

漢の文帝は劉恒(りゅうこう)と言い、高祖・劉邦(りゅうほう)の三番目の息子です。文帝は在位してから24年の間、徳をもって国を治め、礼儀を重んじて盛んにし、民をわが子のように愛しました。文帝は農業の発展に力を注ぎ、田植えの時期になると自ら大臣を率いて、田舎に行って畑を耕し、種をまきました。

文帝の統治下で、前漢は社会が安定して人口が増え、経済も回復して発展しました。皇帝として、文帝はとても謙虚で間違ったらすぐに改めることを知っていました。在位中は宮殿を新しく建てることをせず、その節約した費用の全額を孤児や高齢者の福祉に使いました。文帝は世を治めるのにとても有能で、中国の歴史上で賢明な皇帝として高名です。次の景帝の代と合わせて「文景之治」と称賛されました。

文帝は国を安泰にし、その上、とても親孝行でした。3年間も病身の母の薄太后をとても心配した文帝は、天子の御位に有りながら、奴婢(ぬひ・召使)達が多くいるにもかかわらず、自ら母の薄太后に仕えました。朝早くから夜遅くまで、文帝は疲れも見せずに仕え、毎回の薬は必ず自ら進んで手に取り、母の薄太后に飲んでいただきました。

そして、いつもにこやかに母の薄太后を慰め、優しく母の憂さを晴らし、至れり尽せりの世話をしました。介護のために時には、文帝は着物をお召しになったまま帯も解かずに、就寝することさえありました。そこからも文帝は至孝(しこう・この上もない孝行)の心の持ち主であることが伺えます。

言葉だけで教えるのは納得してもらいにくいものですが、身をもって教えれば人の心を動かすことができます。この物語は孝行をすることには貧賎も富貴も関係なく、孝行する心さえあれば、すべての人がその責務を全うすることができ、孝道を尽くすことができることを教えています。

(編集・甲斐天海)