第5話:人間としての最初の基本的な2つの条件【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】
『三字経』ではこれまで、教育の本質に焦点を当ててきましたが、前話からは、なぜ人は教育を受けなければならないのか、学ぶことの重要性など、直接、子供たちへの指針となる具体的な内容へと移りました。
前話で紹介した「人不學、不
孝行の理念と伝説(二)
古文書や民話には、親孝行の例が数え切れないほどあります。
親孝行の人は、常に博愛と正義の心を持っています。
孝行の理念と伝説(一)
西周王朝の初期、周公旦(しゅうこうたん)は儀礼と音楽を作り、儀礼の中心思想を「尊尊、親親」とすることを提唱しました。彼は、人は天を敬い、臣民は王を敬い、子孫は父親と祖先を敬うべきであると考えて、すべての国民は、自分の友人や親戚を親切に扱うべきであると信じていました。古代の儀礼形式の一部として、親孝行は次第に中国人の最も重要な伝統的価値観の一つとなりました。親孝行が盛んな時代には、年寄りや体の弱い人が支えられずに一人で放置されることはなく、若者は飲水思源(物事の基本を忘れずに大切にするべき)を考
子を授からない運命が変わり、11人の息子を授かった!
安徽省に住む王志仁さんは、事業も軌道に乗って、成功を収めた商人でしたが、30歳を過ぎても子供に恵まれませんでした。中国には昔から「不孝有三,無後為大」という言葉があり、「不孝な行為は三つあり、子として親に対する義理と責務を果たさないこと」という意味ですが、それを「親不孝者は子孫を残さない」と解釈する人も多いです。そのため、彼の妻は子を授かりたい一心で、占いに頼ったり、弛まない努力続けてきました。
康熙帝の親孝行
清の第4代皇帝・康熙は8歳で皇帝に即位し、在位61年の間、「康乾盛世」を成し遂げ、中国歴史上、最も民に尽くし、仁君として名を残しました。
【物語】塩漬けの魚
陶侃(とうかん)という男性が、地方官として赴任していた時のことです。彼は漁業の管理をする役人でした。ある日、陶侃は人を遣わせ、地元名産の塩漬けの魚を母親の元へ届けさせました。魚が好きな母親が、きっと喜ぶだろうと思ったのです。
【二十四孝】親孝行の漢文帝
中国前漢の時代、初代皇帝・劉邦(りゅうほう)の四男として生まれた劉恒(りゅう こう)は、親孝行で評判でした。彼は前漢の第3代皇帝(二人の漢少帝を除く)に擁立され、漢文帝として後世に知られています。
【物語】母親に尽くした男
宋という時代の頃のお話です。黄庭堅(こう・ていけん)という非常に母親思いの男がいました。彼は位の高い役人でしたが、母親の事になると、大事小事にかかわらず全て自分が面倒をみて、決して使用人に用事を申し付けたりしませんでした。
親孝行できぬ者は官位に就くべからず
唐の時代、李皋(りがお、733~792年)が温州に在任していた時のことです。李が視察に出かると、年配の婦人がさめざめと泣いているのを見かけました。不憫に思った李は、婦人になぜ泣いているのかと聞きました。婦人は、「私には二人の息子がおります。名前は、李鈞(りじゅん)と李锷(りあ)です。息子たちは功名富貴を求めて故郷を離れ、二十数年も経ちましたが、一度も家に帰って来たことがありません。今の私は、たった一人で貧乏暮らしを送っています」
【物語】親孝行の子路(しろ)
孔子の弟子の中に、子路(しろ)という弟子がいました。子路の家族は、とても貧乏で、肉と魚が食べられるのは、特別な日だけでした。その他の日は野草を食べ、お腹を満たしていました。貧しい両親を助けるため、子路は百里離れた市場へ行って米を買い、道端の野草を摘んで帰りました。子路は持ち帰った野草を煮て、親のために食事の用意をしました。
富貴な時こそ困窮の日々を思う 驕奢、放縱すべからず!
唐の時代、紀王李慎(第二代皇帝・唐太宗の十男)に楚媛(そえん)という娘がいました。楚媛が八歳の時、父親が病に伏し、楚媛は心配で食が進まなくなりました。娘の沈んだ表情を見た紀王は、自分の病気が治ったとうそをつきました。しかし、楚媛は父親の顔色が相変わらず良くないことに気づき、ますます食事が喉を通らなくなってしまいました。楚媛は非常に父親思いだったのです。
親孝行な息子を救った虎
宋の時代、湖南省で奇妙なことが起こりました。兵役から帰国したばかりの同じ村の9人の男が戻る途中、人気がない山奥まで来ると、突然大雨が降り始めました。男たちは急いで付近の洞穴に駆け込みました。この洞穴は昔、炭窯であり、大きくて深さもあったため、9人が入ってもまだ余裕がありました。
親不孝者が悔い改め善人に
清朝末期、彭三という男がいました。幼い頃に父親を亡くしたことから、母親から溺愛されました。その結果、彭三は怠惰で横暴な性格に育ち、度々外で揉め事を起こすようになり、隣人は彭三に非常に悪い印象を持っていました
天地を動かした 嫁の親孝行
後漢時代、四川広漢出身の姜詩(ジャン・シ)は、厖三春(パン・サンチュン)を娶って息子をもうけ、姜氏の母親と4人で暮らしていた。母親が川の水を好むため、厖氏は3~4キロも先の沱川まで歩いて水を汲むのが日課だった。また、千切りの魚肉が大好物の母親のため、夫婦は魚肉を毎日千切りにして調理した。
親孝行の第一人者
昔、舜という親孝行を貫いた人がいました。
就寝前の親孝行
黃香は就寝前の行動で孝行息子だと称賛されました。
名君の親孝行
周文王(ぶんおう)、姓は姫、諱は昌、中国史における模範的で道徳的な名君で孝行息子した。
継母にいじめられても なお親孝行
閔損(びんそん、紀元前536年-紀元前487年)は、字を子騫(しけん)といい、春秋(周朝)魯国の人。孔子の弟子で、その徳行は顔淵と並ぶほどであった。閔子騫の母は早くに亡くなり、父は再婚した。継母は二人の子をもうけた。閔子騫は両親に非常に孝行であったが、継母は彼を嫌い、実の子二人には綿入れの服を作ってやっても、彼の冬着には葦の穂を使った。
母親思いの6歳の子どもがとった行動とは
東漢のころ、陸績(りくせき)という非常に博識で多才な男性がいました。呉郡呉県(現江蘇省蘇州市)出身で、天文暦学に精通し、「渾天図」を著しました。また、「易経」と「太玄経」に注釈をつけた歴史書を後世に残した人物としてしられています。
自分を殺そうとした父親と弟にとった行動
舜は中国古代の五帝の一人で、姓を姚、名を重華、号を虞氏といい、虞舜と称された。 舜は幼いときに母を亡くした。両目を失明した父・瞽叟(こそう)は後妻を娶り、弟・象が生まれた。
夢をかなえた 新郎のいない「結婚写真」
中国のネット上で、ある女性の結婚写真が話題となりました。奇妙なのは、結婚写真のはずなのに、新郎の姿がどこにもありません。その代わり、女性と一緒に写っているのは87歳のおじいちゃんのみ。一体、どういうことなのでしょうか。
親の悪行を4歳の子どもが正す
「次世代は愛情の注ぎ方を現世代から学ぶ」。子どもは観察と模倣から物事を学ぶことをご存知でしょうか?愛情と尊敬の念を持って自分の両親に接すれば、子どもも皆さんに対して同様に接してくれるのです。今回は、この教訓をよく表している木製のお椀の話をご紹介します。
中国の昔話:疫病から身を守った男
275~280年頃、河南省でペストが流行し、大勢の人が亡くなりました。 庾衮の2人の兄が亡くなり、もう1人の兄も感染しました。庾衮の両親は感染した息子のために棺桶を用意し、家族を連れて別のところへ避難することを決めました。
恐ろしい疫病にかからない人とは
歴史上で起きた数多くの疫病は、悲惨な結果をもたらし、人々に死の恐怖を与えました。しかしその中でも無事に生き延びた人がいます。
親の悪行を4歳の子どもが正す
「次世代は愛情の注ぎ方を現世代から学ぶ」。子どもは観察と模倣から物事を学ぶことをご存知でしょうか?愛情と尊敬の念を持って自分の両親に接すれば、子どもも皆さんに対して同様に接してくれるのです。今回は、この教訓をよく表している木製のお椀の話をご紹介します。
夢をかなえた 新郎のいない「結婚写真」
中国のネット上で、ある女性の結婚写真が話題となりました。奇妙なのは、結婚写真のはずなのに、新郎の姿がどこにもありません。その代わり、女性と一緒に写っているのは87歳のおじいちゃんのみ。一体、どういうことなのでしょうか。
中国古典 慎重なふるまいは誠実さに繋がる
曾子(そうし)は、名が参(しん)で、字(あざな)が神輿(しよ)といい、春秋時代の魯国(ろこく・現在の中国山東省南部を指す)の人です。彼は父親の會点と共に孔子の優秀な弟子でした。
曾子(そうし)は、名が参(しん)で、字(あざな)が神輿(しよ)といい、春秋時代の魯国(ろこく・現在の中国山東省南部を指す)の人です。彼は父親の會点と共に孔子の優秀な弟子でした。
召使いがいても自らタネをまき、母を介護した漢文帝
漢の文帝は劉恒(りゅうこう)と言い、高祖・劉邦(りゅうほう)の三番目の息子です。文帝は在位してから24年の間、徳をもって国を治め、礼儀を重んじて盛んにし、民をわが子のように愛しました。文帝は農業の発展に力を注ぎ、田植えの時期になると自ら大臣を率いて、田舎に行って畑を耕し、種を撒きました。
赤い桑の実と黒い桑の実 親孝行
「孝」は儒家の倫理思想の核心であり、長い間中国社会で家庭関係を維持するための道徳基準であった。それは、中華民族の伝統的な美徳であり、中国伝統文化の精髄でもある。元の郭居敬は、中国古代の孝行が特に優れた24人の故事を集め、「二十四孝」を編集した。後に絵が配され、「二十四孝図」として孝行の道を広めるための通俗読み物となった。
母のために子どもを埋める
郭巨は、晋代の隆慮(現在の河南省林県)の人で、裕福な家の生まれであった。父の死後、彼は家の財産を二人の弟に与え、自分は母を引き取り、親孝行を尽くした。