後漢時代、四川広漢出身の姜詩(ジャン・シ)は、厖三春(パン・サンチュン)を娶って息子をもうけ、姜氏の母親と4人で暮らしていた。母親が川の水を好むため、厖氏は3~4キロも先の沱川まで歩いて水を汲むのが日課だった。また、千切りの魚肉が大好物の母親のため、夫婦は魚肉を毎日千切りにして調理した。
夫婦は仲睦まじく暮らしていたが、ある時、姜氏の叔母の策略で二人の間に誤解が生まれ、厖氏はとうとう家から追い出されてしまった。しかし、厖氏は少しも恨んだりすることなく、尼寺に身を寄せ、日夜を問わず機を織った。彼女は仕上げた織物を売ったお金で米や肉を買い、姜氏の母親に届けては相も変わらず親孝行を続けた。
一方、厖氏の7歳の息子は尼寺にいる母親が飢えに苦しまないようにと、毎日学堂にもっていくはずの一握りのご飯を地蔵寺に隠し続けた。ある日、息子は隠したご飯を持って母親を訪ねた。ご飯が変色していることに気づいた厖氏は、ご飯の出所を息子に問い詰めた。息子が正直に話すと、厖氏は彼を抱き締めて泣いた。
その後、事情が判明した後、姜氏と母親は厖氏を家に迎えることにした。厖氏が家に戻った日、庭に突如泉が湧き出した。味はまさに沱川の水と同じで、泉の中からは魚が2匹躍り出た。厖氏はその後、遠い沱川まで行かずとも母親に新鮮な魚と水を提供することができた。
その後、姑を大事にする嫁の感動話が広まった。叛乱軍の赤眉軍は、この地を通過する時、親孝行である姜氏が居住する場所だと聞き、すぐに下馬して静かに通過するよう全軍に命じた。 それ以降、官吏がこの場所を通過する時には、文官・武官を問わず駕籠を降り、下馬するようになり、敬意を払った。厖氏の親孝行は、多くの人々を感動させ、天地をも動かしたのである。
「後漢書・列女伝」より
(翻訳編集・李青)
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