生涯にわたり、毛沢東と会うのを拒み続けた高僧(下)

中共の「鎮反」運動(反革命鎮圧運動)が全面的に展開される中、100歳を超えた虚雲和尚も免れることはできなかった。彼は「反革命」のレッテルを張られ、残酷な迫害を受けた。大紀元社説『共産党についての九つの論評』(第六章)によれば、1952年、大陸で「中国仏教協会」が立ち上げられ、中共は発足式に数多くの党員を参加させた。式では、「仏教の戒律は多くの若者を死に至らしめた」と主張し、さらに「信仰の自由、僧侶や尼僧は結婚し、酒、肉を食することも自由にし、誰も制限してはならない」と戒律の廃止を求めた。

当時列席した虚雲和尚は仏教が滅亡することを恐れ、戒律や仏教の服装を残すべきだと主張した。そのため、彼は「反革命」という罪をなすりつけられた。さらに、部屋に幽閉され、飲食を絶たれ、トイレを使うことも許されなかった。党員たちが金や銀、また武器などを差し出すよう命じると、彼は「ありません」と答えた。彼は肋骨が折れるほど容赦なく殴られ、全身血まみれになった。当時、虚雲和尚はすでに112歳の高齢だったが、軍警察は彼を地面に叩きつけた。次の日、虚雲和尚がまだ生きているのを見ると、再びひどく殴りつけたという。

中共は寺の所有物をすべて没収し、和尚、尼僧にマルクス主義の学習を強要し、洗脳を進め、労働を命じた。出家人に対しては結婚を推奨し、かれらの仏教への信仰を根本から破壊した。1951年3月初め、湖南長沙婦女連合会は省内の尼僧に対し、数日内に結婚を決めるよう命じた。若い和尚たちは強制的に軍に入隊させられ、戦場へ送られた。

中国の様々な宗教団体は中共の暴力と鎮圧により、破壊された。仏教界、道教界の重鎮が弾圧を受け、多くの出家人が還俗を迫られた。覆面の共産党員が袈裟、僧衣、牧師の服を身に着け、仏教、道蔵、バイブルを歪曲し、それらの経典から中共の運動を正当化する理由をこじつけた。

1953年、共産党は当時114歳の虚雲和尚を北京へ招いたが、断られた。彼は数人の禅師の付き添いと共に、徒歩で江西省永修県の雲居山へ修行にでかけた。草葺きの建物がたった三軒残っただけのこの場所で、虚雲和尚は晩年を過ごしたという。

(翻訳編集・紫蘇)