焦点:途絶えた観光収入、パンデミックが脅かすマサイ族の生活
Nita Bhalla
[マサイマラ国立保護区(ケニア) 31日 トムソン・ロイター財団] – 70歳のロイマン・レトロさんは50年以上にわたり、ケニア・マサイマラ国立保護区の入口ゲート脇の路上で、サファリ観光客にカラフルなビーズのネックレスとブレスレットを販売してきた。
数百万頭ものヌーやシマウマ、ガゼルがマサイマラ国立保護区の広大なサバンナへと流入する恒例の「大移動」が発生すると、いつものレトロさんなら、オープントップのジープに乗り双眼鏡をぶら下げた大勢の観光客を相手に、1日50ドル(約5300円)を稼ぐのが普通だった。
だが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック(世界的大流行)で、それも中断してしまった。8人の孫を持つレトロさんは、鮮やかな赤い「シュカ」と呼ばれるショールをまとい、マスクを着用して、多くの女性たちとともに列に並ぶ。そこではコミュニティの長老らにより、篤志家からの寄付金で購入したトウモロコシ粉、豆類、砂糖の配給が行われている。
<密猟や土地売却に走る懸念)
マサイマラ国立保護区に入る「セケナニ・ゲート」から数キロ離れたナシュライマサイ民営保護区で、「10代の頃から路上販売をやってきた。これまで生きてきて、こんなことは初めてだ。いつも観光客は絶えなかったのに」とレトロさんは言う。
「今はまったく観光客がいない。収入もなく、食糧もない。こうした毎週の配給がなければ、食べていけないだろう」
新型コロナによって、ケニアが誇る10億ドル規模の観光産業は崩壊し、アフリカで最も有力な部族の1つであるマサイ族でも、数万人の人々が生活を脅かされている。
これに伴い、野生動物保護関係者のあいだでは、政府からの支援や他の生計手段がなければ、保護地域周辺の窮迫したコミュニティが野生動物を保護することをやめ、生きていくための密猟や土地の売却に走るのではないかという懸念が生じている。
マサイマラ国立保護区周辺のマサイ族コミュニティは牛・羊・ヤギを半ば遊牧で育てる生活であり、長年に渡り、地上最大級の動物の大量移動を撮影しようとズームレンズ付きのカメラを構える多数の外国人観光客からの現金収入を頼りにしてきた。
コミュニティーが運営する野生動物保護地域である民間保護区(コンサーバンシー)の出資者にとって、7─10月のハイシーズンに、ロッジやキャンプでの宿泊、自動車での野生動物観察ツアー、村落訪問、手工芸品の販売によって得られる観光収入は非常に重要だ。
マサイマラ国立保護区の周辺には15の民間保護区があり、土地の賃料だけでなく、密猟監視員やツアーガイド、宿泊施設の客室係、ドライバーといった有給の雇用を通じて、合計10万人以上に収入を提供している。
マサイマラ国立保護区の東端、ニューヨーク市セントラルパークの約6倍の20平方キロの面積を管理するナシュライマサイ民営保護区の創設者であるネルソン・オレ・レイイヤさんは、パンデミックの影響により、同保護区でも2000人の生活が打撃を受けているという。
レイイヤさんは自らのキャンプの食堂用テントのなかで、客がいないテーブル、椅子のあいだに座り、「ふだんなら1年で最も忙しい時期だ。ロッジは予約で一杯だったが、COVID-19が発生したら、あっというまにキャンセルされてしまった」と語る。
「新型コロナのせいでこのあたりの経済は壊滅だ。コミュニティの誰もが影響を免れていない。人々に飢えが迫っていたので、週1回支援食糧の配給を行うためにクラウドファンディングを開始した。だが、これではいつまでも続かない」
レイイヤさんは、従業員100人のうち40人(大半はロッジの客室係)を解雇し、また牛の世話をする住民とともに多くのキリンやシマウマが共存する保護地域のパトロールをするベテラン密猟監視員の一部についても給与を削減せざるをえなかったと話す。
<「いるのは動物だけ」>
大型野生動物のいるサファリから、インド洋に面した椰子の木に縁取られた白砂のビーチに至るまで、観光資源に富むケニアは、中国、ドイツ、米国、フランス、インド、英国などから昨年は200万人以上の訪問客を集めた。
東アフリカに位置するケニアにとって観光産業は経済の重要な柱であり、200万人以上の雇用を生み出し、国内総生産の約10%を占めている。
だが新型コロナによるパンデミックにより、観光産業は過去数十年で最低の水準に低迷している。政府の試算では、ここまでの損失は少なくとも800億ケニアシリング(7億5200万ドル)、昨年の観光収入総額のほぼ半分に達している。
その影響がどこよりも鮮明なのが、ケニアでも最も人気の高い観光名所、マサイマラ国立保護区だ。
マサイマラ国立保護区の面積は1510平方キロ、シンガポールの約2倍に当たる。最も賑わうのは毎年7月・8月、タンザニアのセレンゲティ国立公園から、もっと豊かなエサ場を求めて膨大な数のヌーの群れが移動してくる時期だ。
毎年この保護区には数万人が訪れる。彼らが見たがるのは、マラ川を越えるときに腹を空かせたナイルワニの襲撃を受けるヌーの大群や、アカシアの木陰に横たわるライオンの群れだ。
だが今年は、観光客の姿はほとんどない。
「動物たちの他は誰もいない」 ナシュライマサイ保護区でツアーガイド兼運転手を務めるコスマス・サルニ・オレ・コシャルさんは、数頭のエランドやトピが草を食むマサイマラの草原を通る荒れた道にジープを走らせながら言う。
「この時期、例年ならばマサイマラの道には非常に多くのジープやミニバスが行き交う。長距離無線からは、ガイドたちがライオンの目撃情報を伝えあう声がひっきりなしに聞えてくるものだ。だが最近は無線も沈黙している」
保護区を訪れる観光客がいない以上、野生動物を求めて車を走らせる夜明け・夕暮れどき以外の時間帯に、マサイマラ保護区の周辺に散在する土と藁で作られたマサイ族の「マニヤッタ」(集落)を訪れる人もほとんどいない。
「マニヤッタ」では、ジャンプが特徴のマサイ族の戦士たちによるダンスに参加し、火の熾し方を学び、家々を訪れ、槍や幅広のビーズのネックレスといった骨董品を買い求める。彼らが落とす金額は、繁忙期には毎日数百ドルにも達する。
木の枝で作られたフェンスで囲まれた「イワンガン」という名のマニヤッタは、マサイマラ保護区から車で数分、24の家で構成されている。ここでは住民たちが将来を案じていた。
約159人の住民が暮らすイワンガンの長老ジャック・モニコさんは、「例年なら毎日40─50人の観光客が来て、1人30ドルの入場料を払ってくれる。我々はその金を教育や医療といったコミュニティーのニーズを支えるために使っている」と語る。
「だが最近は、そうした日々の収入が途絶え、不安になる。新型コロナウイルスが今後どうなるのか、観光客がいつ戻ってくるのか見当もつかない。人によっては、来年になっても観光客が来ないのではないかと言っている」
住民らによれば、COVID-19に伴う制限によって家畜市場や食肉処理場も閉鎖されているため、家畜の販売という伝統的な収入源も絶たれているという。
さらに、パンデミックのせいで牛の価格も通常の3分の1に当たる2万ケニアシリングに下落してしまっているため、家畜が売れたとしても割に合わないと彼らは言う。
<野生動物に迫る危機>
マサイマラ地域の民営保護区は、土地所有者・畜産コミュニティが観光収入を通じて野生動物と自らの生活圏を持続可能な形で管理・保護することを支援する趣旨で設立されたものだが、今や危機に瀕している。
民営保護区のキャンプが管理対象とする地域は合計1400平方キロ以上で、規模の点ではほぼ国立保護区と同等である。マサイマラ野生動物民営保護区協会によれば、約1万4200人の土地所有者が年間500万ドル近い賃料収入を得ている。
だがパンデミックにより大半のコンサーバンシーでは観光客が途絶えてしまい、出資者への支払いを停止または半減させ、ツアーガイド、密猟監視員、キャンプスタッフ数百人を、ほぼ補償なしに解雇せざるをえなくなった。
ナシュライマサイ民営保護区で監視隊長として働いていたジョゼフ・コシキルさん(65)は、給与の半分をまだ支給されている分、他の大半の者より運が良いと話し、他の保護協会では多くの密猟監視員やスカウトが自宅待機になっていると言葉を添えた。
「私は16人の密猟監視員を監督しており、ここでの仕事は、コミュニティと野生動物、双方の生活を守ることだ。人間と動物の対立を止めるために介入し、密猟者を発見すると共に、ナシュライに来る観光客を守っている」と彼は言う。
「だがこういう新型コロナによる状況が続き、給与が出ないために密猟監視員が仕事を辞めざるをえなかったら、誰にとっても非常に困ったことになる。動物との対立が増えるだろう」
野生動物保護の関係者は、これまで数十年にわたって森林破壊・密猟の抑制に貢献してきたコミュニティが、窮迫のあまり、野生動物の密猟で生活を維持しようと犯罪集団に利用されてしまう可能性があると憂慮している。
アフリカ野生動物基金のカッドゥ・セブニャ最高経営責任者は、「ロッジで働いていた人々が失業している。野生動物保護区や国立公園では密猟監視員を解雇している」と話す。
「こうした人々は公園内の状況を誰よりもよく知っており、誰が彼らを雇おうとするかは分かりきっている。密猟者たちだ」
ただしレイイヤさんは、マサイマラ地域ではそうした可能性は低いと言う。
「マサイ族の文化は常に野生動物を守ってきた。我々は動物たちとの関係を保っている。ゾウには人間と同じように魂があり、ゾウを殺せばその祟りがある、と信じている」
「最大の懸念は、マサイ族の土地所有者が何の収入も得られなくなりつつあり、生活に困って、野生動物保護以外の目的のために土地を売ってしまうことだ。そうなれば、マラ地域とマサイ族の生活の崩壊につながりかねない」
(翻訳:エァクレーレン)