江戸時代を生きた絵師、葛飾北斎(1760〜1849年)。その名を聞けば、誰もが版画を思い浮かべるでしょう。しかし米ワシントンD.C.の国立アジア美術館で日本美術学芸員を務めるフランク・フェルテンズ氏によると、北斎は「画狂人」という画号を使うほど肉筆画に没頭していました。
国立アジア美術館(フリーア美術館およびアーサー・M・サックラー・ギャラリー)では、フリーア美術館を創設した実業家、チャールズ・ラング・フリーア氏の没後100年を記念して、2019年11月から1年にわたり「画狂北斎(Hokusai: Mad About Painting)」展を開催しています。フリーア美術館所蔵の北斎作品全120点は、フリーア氏の遺言により門外不出となっています。
新型コロナウイルスの影響により現在、閉館中ですが、再開が待たれる「画狂北斎」展。
フェルテンズ氏に、北斎の肉筆画の魅力や日本の伝統絵画について話を伺いました。
ー北斎が絵師になったきっかけは。
北斎は江戸、現在の東京に生まれました。若くして木版彫刻の見習いとなり、絵師と言うより彫刻師として、働きながら木版彫刻・版画の技術を学びました。10〜20代で「黄表紙(絵が主体の読み物)」の挿絵を手がけて才能を発揮、より複雑な版画を作るようになりました。肉筆画も手がけるようになったのは30代のことです。
その後、60代後半〜70代前半で肉筆画だけを描くようになりました。版画は商業的で労力を要しましたが、肉筆画では自身の芸術性を直接表現できたのです。
ー北斎が後年になって画家を目指した理由は。
見習いとしての謙虚さからです。日本の師弟関係で重要なのは師匠から技を学ぶことであり、弟子が作品を作り出すことではありません。
30代で画家になるのは日本では珍しいことではありませんでした。
当時、幼い頃から絵画の修行ができたのは、「一流画派の家に生まれる」あるいは「養子」となった場合のみ。北斎は画派ではなく木版彫刻に入門し、まずはその技術習得に集中したのです。
ー北斎は外国文化の影響を受けましたか。
もちろんです。江戸時代、日本は鎖国により外国貿易を厳しく制限しましたが、実際のところ、交易窓口ではいくらでも抜け道がありました。そうやって西洋医学書、西洋・中国絵画などが持ち込まれたのです。
北斎は外国文化から得た様々なものを作品で融合させました。彼の作品がいまだに受け入れられているのは、日本っぽい中にも西洋人が絵画に求める常識、つまり遠近法、自然主義、正しい比率などがきちんと取り込まれているからなのです。
ー北斎の代表的作品『水滸伝(すいこでん)』について教えて下さい。
『水滸伝』は私のお気に入りの一つで、社会から阻害された100人程の荒くれ者が社会に再び受け入れられる様子を記した中国の有名な物語を元に描かれた作品です。
北斎の『水滸伝』は未完の作品です。未完の理由は謎ですが、弟子の手本にするためだったとも言われています。日本絵画では多くの色を使う大作に弟子も一緒に取り組むことがありました。これはルネサンス期の絵画にも見られた習慣です。
日本絵画は伝統的に、師匠が構図を決め輪郭を描き、弟子が細部を描き入れ、最後に師匠が人物の顔に色を塗りました。
しかし『水滸伝』では先に顔が彩色された例もあり、北斎は伝統を守らなかったことが伺えます。このことは、人物だろうが波だろうが描く対象物の本質が一番大切、という北斎らしさを表していて、『水滸伝』は北斎の指針表明のようにさえ感じます。
所々黒く塗りつぶされているのは登場人物名を金で記すはずだった枠です。絹に高価な絵の具を用いたこの絵巻は完成すればかなり豪華だったと思われ、相当な財力を持った人物に依頼されたのだと推測されます。
ー『漁樵(ぎょしょう)問答図』について説明して下さい。
これは、北斎人生最後の6カ月間に描いた作品です。よく見ると輪郭や画号の線が真っ直ぐではないことがわかり、年老いて手が震え、体が思うように動かなくなった様子が伺えます。
漁師と木こりの1日の終わりが描かれており、1日懸命に働いて得た収穫物が足元に並んでいます。満ち足りた両者の表情、労働の成果が描かれていることから、この作品は北斎の晩年を体現していると言われています。
スミソニアン協会国立アジア美術館の「狂人北斎」展の再開日程等、詳細はこちらでご確認下さい。
asia.si.edu
(大紀元日本ウェブ編集部)
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