契りおく花とならびの岡の辺にあはれ幾世の春をすぐさむ(兼好自撰歌集)
歌意「この双ケ岡(ならびがおか)に私の墓をつくった。私の死後に、ともに過ごそうと約束して、その墓に並べて桜の木を植えた。ああ、私は(この墓に葬られた後に)幾たびの春を、この桜とともに過ごすのだろう」。
「並び」と「ならびの岡」は掛詞ですが、その双ケ岡はどこかというと仁和寺(にんなじ)の南。今でいう京都市右京区で、ここに晩年の作者が隠棲して住んだ草庵があったとされます。今でも低い丘が二つ(正確には三つ)仲良く並んでいる地形を見ることができます。
草庵の主の名は吉田兼好(よしだけんこう)といいます。俗名は卜部兼好(うらべかねよし)。学校教科書では「兼好法師」または「兼好」となっているでしょうか。その生没については1283年から1352年といわれますが、実のところはっきりしません。
鎌倉時代後期を代表する随筆『徒然草』が突出して有名であるため、歌人としての兼好はあまり知られていませんが、もちろん歌も詠んでいます。そこで表題の一首ですが、今でいう生前に自分の最期の準備をする「終活」の歌に属します。
歌自体は、西行の先行歌「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」に代表されるように、桜の下に永眠するという、中世の隠者が共通してもつ理想の「死に方」に習ったようにも見えます。ただ、少し意外なのは(実は、全く意外ではないのですが)あの『徒然草』に見られるように、機知とウイットに富んだ作者が、かくも真剣に、自分の死後に向き合っていたという吉田兼好の姿勢です。
繰り返せば、考えてみれば「全く意外ではない」のは、どんなに吉田兼好が興味深く、おもしろく人間観察をしていても、中世の大命題である「無常観」からは離れらないということに尽きるでしょう。
『徒然草』第53段に、こんなすさまじい話があります。「ある日、仁和寺の法師が酒を飲み、よい心地になったので、めいめい芸をすることになった。ある法師が、そばにあった鼎(かなえ)を頭にかぶって踊り出すと、皆おもしろがって喜んだ。ところが、その金属製の鼎が、頭から抜けなくなったから大変。薬師(医者)にも手立てがない。このままでは確実に死んでしまうので、皆で力まかせに引き抜いた。耳も鼻もちぎれて、法師は穴だけが残る頭になった」。
「からき命まうけて、久しく病みゐたりけり」という結語で第53段は終わります。法師は、危うく命拾いしましたが、長く病床につくことになったわけです。人間の酔狂など、こんなもので、命の危険とはいつも隣り合わせ。ゆえに人は、努めて身を慎むべきではありますが「今日ある命が明日はない」というのも常のことである。それらを恐れて忌避するのではなく、無常観として大きくとらえたところに、中世の隠者文学が輝きを増します。
同僚の中国人スタッフが「日本人はなぜ、あんなに桜が好きなのですか」と私に聞きました。「桜は、すぐに散るからですよ」。私の答えに、頭のいい彼は全く理解できず、首をひねるばかりでした。
散ればこそ花の命は常ならむ人の命もかくやあらざる
(敏)
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