【古典の味わい】貞観政要 8
貞観7年のこと。襄州の都督(ととく)であった張公謹(ちょうこうきん)が死亡した。
太宗は、その訃報を聞くと大変悲しみ、宮殿から出て、優秀な部下であった張公謹のために喪(も)を発した。
天子の突然のふるまいに、祭祀を扱う係の役人が驚き、こう申し上げた。
「陛下。今日は辰(たつ)の日でございます。陰陽の書物によれば、辰の日に死者を哭してはならないとあります。これは世俗のものも避けていることでございますから、何卒、今日はお止めくださいますよう、臣、謹んでお願い申し上げます」
それを聞いた太宗は、こう申された。
「君臣の間の情義は、父子のそれと同じである。朕(ちん)は今日、張公謹の死を聞いて、心の底から悲しんでいる。その朕の本心に反して、どうして別の日に哭礼を取り行えるのか」
かくして、辰の日ではあったが、太宗の命により張公謹の哭礼が行われた。
襄州(じょうしゅう)は今の湖北省襄陽県。都督とは、数州の行政と軍政を統括する重要な役職です。
ここで光るのは、そのような形式上の重要さではなく、皇帝である太宗が、信頼する優秀な臣下の死を聞いて、禁忌の日もかまわず、心から悲しむ誠実な姿勢にあります。これは周囲に見せるためのポーズではなく、太宗の人柄からでた本心と見て間違いないでしょう。
哭泣(こくきゅう)というのは、儒教世界では重要な「慣習」になっていることですが、人の死を悲しむポーズを、とんでもない大声を上げて泣き叫ぶことで周囲に表現するものです。
近代になってもこの慣習はかなり残っており、棺の後ろに金銭で雇った「泣き女」が続くなど、形骸化した部分ももちろんあります。
ただ、たとえ慣習であっても、大真面目にそれを実行するところに彼らなりの実(じつ)があるとも言えますので、それを私たち日本人の感覚で否定もできないようです。
ここで太宗は、そうした慣習を司る係官の進言を抑えて、「禁忌の日であろうとも、悲しいものは悲しいのだ」という本心を見せています。『貞観政要』には書かれていませんが、太宗はきっと、声を上げて泣いたのでしょう。
(聡)