(魏徴の上書、続き)
「そもそも、群雄が天下を狙って取ろうとしているうちは、その心中に憂いもあり、必ず誠意を尽くして下の者を大切にもするでしょう。しかし、ひとたび志を遂げてしまえば、欲望をむき出しにして、人に対して傲慢になるものです」
「権力を得て、傲慢になれば、ときに肉親さえも赤の他人となります。民心が離れた君主は、ただ厳罰を科して取り締まり、威嚇をもって人を従わせようとします。臣下のものどもは、とりあえず自分の身が守られることだけを考えて面従しますが、それは本当に君主の仁徳に敬服しているのではありません」
「このように、まことに恐れるべきは民の心が離れることです。舟を浮かべて走らせるのが水であれば、舟を転覆させるのもまた水の力によるものです。それと同様に、君を立てるのも、君を滅ぼすのも、全ては民なのでございます。このこと、よくよくお考えにならなければなりません。あたかも、腐った綱で奔走する馬車を御することができないように、少しも油断ならないことなのです」
(以下、さらに続く)
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魏徴が、この長い上奏文で太宗に伝えたい思いは、ただ一つ。
自身が仕える太宗が、大唐帝国を統治する皇帝として、後世の模範となるような、中国史上最高の名君になることです。
ここで魏徴が熱弁をふるう通り、国家を運営する根本はまさしく民の安寧にあるとするのが、古からの聖人の教えです。またそれは、隋朝滅亡後の混乱がようやく平定されたこの時期における、最大の政治責任でもありました。
貞観11年(637)と言えば、太宗は37歳ぐらい、魏徴は59歳ほどであったでしょうか。魏徴がこの文書に込めた思いの強さはほとんど情熱的といってよいほどで、魏徴という人物の硬骨と、まっすぐな忠義のほどが窺えます。
上記の引用部分のなかで、とくに第2段の文言は、まさに現代中国の惨状を予言していたかのようです。もしそうであるならば、「舟を転覆させる水」という人民の比喩が、比喩でなくなる日も遠くないのかもしれません。
太宗は、もちろん卓越した人物ですが、もともと戦場で鍛えられた武人であるためか、ときには部下の者たちに激しい性格をあらわにすることもあったようです。そのようなときに、魏徴が発した太宗への諫言は延べ200回にも及んだと言いますので、相当な回数です。
この上奏文にも見られるような魏徴の強い思いは、こうした積み重ねのなかで培われた君臣間の強力な信頼関係があってこそ、遠慮なく表現できるものです。
太宗は626年、本来の太子であった兄(李建成)を討っています(玄武門の変)。
儒教道徳からすれば反逆にもあたる「兄殺し」の罪を背負い、まして父である高祖崩御(635)後のこの時、まだ若い新皇帝にかかる重圧は並大抵のものではありませんでした。
かつて李建成の側近であった魏徴を見出し、その直言を高く評価して、自身の側近である諫議大夫に任命したのは、太宗もまた自身の重大な使命と責任を十分に認識していたからに他なりません。
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