(前回の上書に続いて)同じ月のうちに、魏徴は再び文書をしたため太宗に申し上げた。
「臣、魏徴は、このような話を聞いたことがあります。木を高く育てるためには、その根を堅固にしなければならない。水の流れを遠くまで行き届かせるには、その水源を深く掘って川の水が枯れないようにしなければならない、と。それと同様に、国家を安らかに永続させるには、必ず徳義を積まなければならないのです」
「わたくしは、愚かな臣下ではございますが、徳義なくして国家安泰はなし得ないことを知っております。もちろん、明哲なる陛下は、それをよくご存知のことと存じます。もしも天子が、その位に居りながら徳を厚くしようとなさらないならば、それは根を切って木を茂らせることを望み、源泉を塞いで水を遠くまで届かせようと欲するようなものです」
「歴史上、天の大命を受けて皇帝となった人物のなかで、はじめは非常なる憂国の思いによってその政道を大いに顕したものの、一たび功が成った後には人が変わって、徳が衰えなかった前例はございません。なんと、天下を取ることはかくも易しく、天下を安寧に保ち続けることはかように難しいのでございましょう。昔、天下を取る過程で積んだ徳が、天下を守る段階に至るとたちまち不足してしまうのは、一体どうしたわけでございましょうや」
(以下、続く)
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魏徴は、同じ月のうちに、再び文書を奉じて太宗に申し上げています。その心中に、よほど燃え上がるような忠義と憂国の思いがあったのでしょう。
後世の人が敬意を込めて呼ぶ「太宗(たいそう)」は、実は廟号(びょうごう)です。中国史上で、太宗の廟号をもつ皇帝は10数人に上りますが、そのなかでも唐の太宗が傑出しているため、太宗と言えばその人を指すと言っても過言ではありません。
廟号とは、皇帝が崩御した後に、それを祀る廟につけられる尊称です。これに対して、諡号(しごう)という名前もあり、その子孫が先帝の業績を称賛してつける美称ですが、太宗の諡号は「文武大聖大広孝皇帝」とかなり長くなるので、廟号のほうで呼ばれることが多いわけです。
平凡な業績しかもたない皇帝であっても、およそ諡号は、まあまあ良い文字を当てられるのが通例です。ただし、なかには下諡といって、不徳によって国を滅亡させた暗君や暴君には、貶める意味の漢字で諡号がつけられることもあります。隋の楊広につけられた煬帝(ようだい)が、その筆頭でしょう。
楊広の父君である楊堅は、隋朝の開祖であり、また英明な君主であったので敬意を込めて文帝と諡(おくりな)されました。ところが、その「2代目」がとんでもない放蕩息子であったため、隋は崖からころげ落ちるように、わずか37年の短命王朝に終わるのです。
唐の太宗、名は李世民。こちらも「2代目」です。もちろん前朝の2代目とは対極的な、優れた素質をもった人物でした。その名が「済世安民(世を済し、民を安んじる)」からとられたように、人民に安寧をもたらす名君になることを運命づけられたような英傑です。
ただ、それを知り尽くしていながら、なおも魏徴は、心配性の老翁のごとく「民の模範になるよう、くれぐれも徳をお積みください」と小言を繰り返します。その文中の言葉「何也(一体どうしたわけでございましょうや)」には、臣下の身ながら、ほとんど絶叫のような強い語気があります。
実は、魏徴のありがたい「お小言」はまだ延々と続くのですが、上記の引用部分で、日本の読者各位にぜひご注目いただきたい箇所がありますので、ご紹介しましょう。
魏徴は「凡百元首、承天景命(天の大命を受けて皇帝となった人物)」と書いています。
皇帝がすわる玉座は、天から大命を授けられることによって「選ばれた人物」が座する場所です。つまり、その人物に徳がなくなれば、天は不徳の者を誅し、人物を取り換えるか、あるいは王朝をそっくり交替させることになります。これが易姓革命です。
易姓革命は、この「天(神にちかい概念)」という絶対的存在への崇拝を出発点とします。
つまりは、前王朝が徳を失って滅び、新たな徳を備えた英雄が新王朝を立てる(姓が易わる)ということですが、そこには血統の断絶よりも「徳の断絶」を最も禁忌とする、中国の伝統思想があるのです。
歴史を振り返れば、天を畏れず、神仏を無きものとし、伝統文化を破壊する外来思想のグループが、20世紀の後半から今日まで、中国大陸の政権を奪い続けています。
「これは本来、異常な状態なのだ」と気づくことが、いま日本人が持つべき正常な感覚と言えます。
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