↓
(前文に続き)太宗は、房玄齢と魏徴それぞれの見解を聞いた後、このように述べた。
「房玄齢は、その昔、朕によく従って天下の戦乱を平定した。その頃は、ともに艱難辛苦を嘗め尽くし、ときには九死に一生を得るような場面もあった。そのことからしても、草創期の困難は言うまでもない」
「その一方で、魏徴は今、朕とともに天下を安んじるがゆえに、(朕に)わがままや、おごり高ぶる心が少しでも起きれば、必ず国家を危うくし滅亡させることを憂慮している。それほど魏徴は、守文すなわち君主が率先して文治の模範となることの難しさを熟知しているのだ」
「国家草創期の苦難は、もはや過去のこととなった。今はただ、困難でもある守文に徹して、まさに貴公らとともに、朕はよく我が身を慎んでいこうと思う」
*****************************
唐の太宗が、中国史上第一の名君と称賛される理由は、まさにこのような一面に表れているでしょう。
臣下の言葉を謙虚に聞き、それぞれの見解を否定せず、これを正当に評価するとともに、その中から我が身を正し、理想的な君主のあり方を探求していく太宗。
そうした誠実な態度は、まさに帝王学の理想形と言えるものです。
太宗の根底にある思いは、何だったのでしょうか。
「君主が徳を失い、自身のふるまいを過てば必ず国が乱れ、やがて国家は滅亡する。それによって最も苦しむのは人民である。そうなっては絶対にいけないのだ」。
太宗にとっての直接的な反面教師は、前王朝である隋を滅ぼした煬帝(ようだい)でした。ただ、この場面で太宗は、単に「武断か、文治か」という政治の方法論を側近に問いているのではないらしいのです。
おそらく、この場面における太宗の真骨頂は、「當思与公等慎之(まさに貴公らとともに、朕はよく我が身を慎んでいこうと思う)」という最後の言葉、言わば「まとめの部分」にあると思われます。
房玄齢は軍人ではありませんでしたが、即位前の太宗によく従い、玄武門の変(626)というクーデターを成功させました。
その結果、太宗の兄(李建成)と弟(李元吉)は討たれ、太宗が皇位を継承することになったわけですが、その功臣である房玄齢からすれば、もとは李建成の側近であり、現在は太宗の信任を得ている魏徴は「好ましくない存在」であった可能性が高いのです。
太宗はここで、意見の対立をみせた房玄齢と魏徴の二人を、あたかも言葉の両腕で抱きかかえるように「貴公らとともに、我が身を慎んでいこうと思う」と、圧倒的な見事さで総括します。
二人が、内心で大いに感激したことは、想像に難くありません。↓
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。