中華文化は古来より「神人感応」を深く探求してきた。鳥や虫の罪は凶兆と認識している( topic_e7 / PIXTA)

神人感応 魏、呉、蜀の三国の衰退を予言した凶兆

美しい鳳凰の飛来は吉兆と見られているが、雑羽の鳥や黒山のようなカラスが現れるなら、史書五行志の中では鳥や虫の罪の一つと見られている。中華文化・人を一とした中心思想を伝承している。

古来より神人感応を重視している。鳥や虫の罪は凶兆と考えている。《漢書》の中には劉歆が「鳥や虫の罪」のことに言及している。さて、三国時代のいくつかの「鳥や虫の罪」のことや、歴史事実と合わせて、どのように的中したか、見てみよう。

曹魏時代の鳥虫の罪

曹丕が即位し魏文帝となった第三年(黄初三年)、一群の黒く首が長く目が赤い頭に毛のない禿鸛(ハゲコウ)が洛陽、芳林庭園池に姿を現した。禿鸛は気性が貧欲で頭と首に毛がなく凶兆とみられる。黄初七年にまた飛んできた。この禿鸛の再来は不幸な兆しを知らせる様に、夏に魏文帝が逝去した。

後任に魏明帝、曹叡が継承した。最初は軍事、政治や文化かなり大きな功績を残していたが、残念なことに後期では、盛んに土木工事をやり、政務をおろそかにした。

景初元年、明帝が凌霄閣を建てこの時、黒白雑色の鵲(カササギ)が上に巣を作った。

魏明帝は史官高堂隆にこれはどんな兆しかと聞いた。高堂隆は「詩経·国風」の「鵲巣」の一句「維鵲有巢,維鳩居之」を引用して答えた。

その意味は、今、鵲はここに巣を作ったが、将来、鳩が住みに来るということで、これは「まだ出来上がっていないので住むことはできない」の兆しである。おそらく将来ほかの大臣が聖上を追い払うだろう。深く考えないといけないと解析した。魏明帝はこれを聞き、顔色が変わり動揺した。

二年後の景初三年、洛陽の芳林庭園の池にまた一群の秃鶖鳥が飛んできた。またしても秃鶖鳥が姿を現したのだ。凶鳥がまた姿を現すことは大人物の逝去を暗示する。魏明帝は不吉な予感がし、秃鶖鳥に嫌悪感を持った。その後、やはりこの年に魏明帝が逝去した。わずか35歳であった。

この後継承した魏帝の実権は補佐大臣に握られ、傀儡となった。26年後、曹魏政権は司馬氏の家族の手に落ちた。まさに「維鵲有巢,維鳩居之」が的中した。

上に述べた景初元年の「鳩がカササギの巣を奪う」鳥虫の罪が晋朝でも発生していた。

同様に的中した。両者の間、偶然の一致は沢山あり、ついでに言っておく。

東晋、孝武帝太元十六年六月、カササギは太極殿(皇帝が即位する所)の東の部屋の屋根の鴟尾に巣を作った。宮殿の中他の一か所、国子学堂の西側にも巣を作った。

太元十八年太子(皇帝の息子)の東宮を建てたばかりの翌年一月鵲鳥は東宮西門に巣を作った。「晋書」の記録ではこの鳥虫の罪現象は魏明帝景初元年の鳥虫の罪と同じだった。

学堂は徳風教化の場所で、西側は五行、つまり木、火、土、金、水の中の金の位置だった。晋朝の五行は金に属してこの2個所で鵲鳥に巣が作られることは晋朝が独占され教化は退廃する兆しということだった。

歴史的事実に照らしてみると、晋孝武帝の逝去後、晋安帝の王位の権力はすぐに大臣に握られ、その後桓玄氏が君位を奪い取り、教育退廃となり東晋政権は有名無実となった。

晋の最後の皇帝、恭帝が継承したとき、実際、東晋朝政はすでに完全に劉裕の手に握られていた。わずか一年半の間で、東晋は終了した。

蜀の鳥虫の罪

三国時代の蜀国にも同じく鳥虫の罪が発生した。

王位継承した劉禅の建興九年十月、益州江陽から江州(重慶)で、たくさんの鳥が江南から江北へ渡ることが発生した。秋に渡り鳥が北へ飛ぶことは普通のことではない。大量の渡り鳥は水に落ちて死に、千匹以上となった。「晋書」には鳥が北へ飛び対岸に渡れず落ちて死ぬことは何かの象徴であると記載されている。水に落ちて死んだ鳥はどんな歴史的事実を示しているのだろうか。

考えてみよう。三国時代、蜀漢には異象(異常な現象)が発生した。秋には大量の渡り鳥が北へ飛び川を渡り、千匹以上が川に落ちて死んだ。それはどんなに手に汗を握る光景だろう。

当時、諸葛孔明が方策を立てて漢室を振興し、天下を統一しようと考え、彼は慎み深く献身的に尽くした。諸葛孔明がなくなった後、孔明の志を継承した大将、姜維が使命を果そうと、積極的に出兵したが、度々敗戦して戻った。蜀国の将軍らは北へ出兵し、たくさんの兵士、将軍が戦死した。

命で国への忠誠を表した。彼らは川に落ちて死んだ鳥に相応する。

諸葛孔明が天府の国(四川)を安定させたが、蜀漢の領地は渭水を越える事ができず、長安がある渭水の北をとることができなかった。

これは逆の北へ飛び、川で命を落とした鳥たちはこの歴史を予告したようだ。

 

呉の鳥虫の罪

三国中の東呉も同様の鳥虫の罪の異象があった。孫権、赤鳥十二年四月、二匹のカラスを口にくわえた鵲鳥が皇居東側の東館学舎に落ちた。孫権は丞相朱据に祭典として鵲を燃やせと命じた。

東館学舎は孫権が建てた校舎で、朝廷の王子や大臣の子供たちはみなここに集まり勉強する。漢時代の大学者劉歆の言うには、鵲が皇居に落ちる事は鳥虫の罪の兆しで、当朝の執政者が良く見えず、聞けないことで招いた不吉な懲罰の兆しだと言った。事実はどうだっただろうか。

当時は孫権の末期で、彼は警告を聞かず、告げ口を聞いた。徳が衰え殺生を好んだ。翌年、丹楊、句容及び故鄣、寧国などの地方で、山崩れが相次ぎ、茶陵県等で川が氾濫した。

皇太子の孫和は王位が剥奪、もう一人の息子、魯王孫覇は自殺を命じられ、丞相朱据が降職されたことは鳥虫の罪に相応した。

鵲が東館に落ち、災いは直接皇太子、王子の身に降りかかり、天意が示されたのではないだろうか。

この鳥虫の不思議な現象は一回だけではなく、一年後の太元二年一月、また鵲が巣を作った。同年、孫和は南陽王となり、長沙に住んだ。彼の船は蕪湖を通りかかる時、鵲鳥は彼が乗っている船の壁に巣を作った。

太子の下役らはこれを知り、心配でたまらない。帆壁末端に鵲鳥が巣を作ったことで船が傾き、これは不安の兆しと思われた。

果たしてこの年、孫権がなくなった後、丞相大将軍、孫峻が暴動を起こし、孫和は廃止され、死を命ぜられた。

中華文化は神人合一の精神思想を受け継ぎ、史官が観察した天象変化や不思議な現象で、国の安定のために、皇帝の施政を正していた。

天(神)はみだりに殺生をしない品徳を持ち、鳥虫の罪は凶の兆しとともに、警告でもあった。また凶の兆しから凶事の発生まで、一定の猶予を残し、歴史上の魏蜀呉三国で発生した鳥虫の罪の兆候は全て歴史上の事実に符合し、結果は全て大凶であった。それに一朝一代を滅ぼす前の凶兆だった。

惜しいことに、世の中の人々は発生した天象、異象を利用して悟り、物事の情勢を転換させることは難しい。言い方を変えれば、鳥虫の罪は歴史の必然的な趨勢に符合している。

参考文献

《晋書志十八·五行志中》

三国志

《漢書·志·五行志中之下》

(翻訳・李明月)

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