かつてのプリンシパル・ダンサー、ソプラノシンガーとして

レイチェル・ユ・ミン・バスティック(宇寧)さんのダンサーとしてのキャリアは、NTD中国古典舞踏国際大会(2010年)で優勝したことから始まった。やがて神韻芸術団のプリンシパル・ダンサーとなったが、その3年後、ソプラノのシンガーとしても同時に公演するようになった。

「ダンサーとしての舞台が終わると、ソロのシンガーとしてのドレスに着替えます。そして歌い終わると、すぐにダンサーの衣装に着替えて舞台に上がるのです。シンガーとダンサーでは呼吸法が違うので干渉しあうと思われがちですが、そんなことはありません。あまり考えてもいませんでしたが」

やがてはシンガーに専念するようになるのだが、二役での公演は各シーズンで約100回、それが4年間続いた。

神韻は、5千年前の古代中国の芸術、文化を復興させているが、伝統的な歌唱法であるベルカントも復興させた。ベルカントとは、直訳すると「美しい歌声」「美しい歌」となる。彼女にシンガーとしての才能があったのは間違いないが、そのキャリア転換は簡単なものではなかった。彼女は神韻の芸術監督に師事し、ベルカントのトレーニングを一から受けることとなった。彼女は語る。

「本物のベルカントは、どちらかというと “外向き “になる傾向があります。つまり、言葉をはっきりと発音することに重点を置いているのです」

ボイスポジションが重視され、外向きであればあるほどよい。このようなテクニックは、観客に聞こえる音量を最大なものとする。

対照的に、現代のベルカントスタイルの指導法では、口の奥の方に声を集中させ、より内側にある位置から音量と深みを出す傾向がある。この手法では、シンガー自身には非常に充実した声が出るものの、観客には大きな音量として届きにくい。

一般的にシンガーは声帯の状態を重視するが、彼女の場合はそうではなかった。実際、ベルカントを習い始めた頃に声が出なくなったとき、声帯を休めるどころか、「正しいポジション」を見つける絶好の機会としたという。

「間違ったポジションをすべて使い果たしたので、自分の声に合ったポジションを見つける良い機会だったのです」

試行錯誤と練習を積み重ね、彼女は自分の技量を磨き上げた。その結果、技量とは肉体的なものではなく、むしろ心や精神の領域に入っていく必要があると分かった。

「イマジネーションです。その領域に没頭し、集中し、声の位置を見つめるのです」

純粋なメンタリティ

彼女は長年にわたって声楽を学び、公演してきた。そして技量だけでなく、自分の個性や精神も踏まえた純粋なメンタリティが必要だと気づいた。優れたアーティストになるためには、自分のモラルを高めることが不可欠だったのだ。
彼女は、音楽には神聖さが宿ると信じている。古来、音楽は神に捧げられ、儀式に使われていた。神へと繋がる神聖な架け橋として機能していたのだ。アーティストは本来、人々の魂を浄化し育む役割を担っていた。そうした歌は、より強いエネルギーで観客に届き、よりポジティブな感動を届けることができたのだ。

神韻のアーティストたちは、精神修煉者でもある。彼女も法輪大法(法輪功)を実践しており、真・善・忍の三つの原則と五式の功法を重視している。

「私たちの修煉は、心を修煉し、モラルの向上を大切にしています。そして瞑想や功法は、私たちの心、メンタリティをより良くするために役立ちます。自分の気持ちや感情を伝えることが目的ではないのです。神韻の歌は、すべて芸術監督の創作です。歌詞には創造主、天、神々がよく出てきます。神を忘れてはいけない、思いやりを大切にということですが、共産主義の無神論は有害だとの警告でもあります」

彼女は、最も観客の心を動かすのは歌詞だと考えている。歌詞に込められたメッセージが人々に訴え、普遍的に価値あるものを重視するきっかけになればと考えている。

例えば優しさといった普遍的に価値あるものは、世界中の人々が尊重している。神韻は、人間の本質としての優しさを表現しており、それが世界中の観客の心に響いている。

神韻の観客からは、「一生に一度の経験だった」「一生待っていたものだという気がする」という声が聞かれる。多くの観客が、より良い人間に、つまり他人に親切にし、より有意義な人生を送ろうと思うようだ。彼女はそうした思いに応えたいと願い、こう語っている。

「私は、より高いレベルに到達したいのです。そうして神韻の歌の解釈を深め、観客の皆さんに伝える力を高めたいのです」