1995年12月、米紙「ワシントン・ポスト」は、「Man of the Millennium」に選ばれたのはチンギス・カンであることを報じました。その理由は、チンギス・カンがグローバルな観察力で、ヨーロッパとアジアをつなぐ自由貿易圏を切り開いたためです。インターネットがまだない700年ほどの昔、チンギス・カンはすでにグローバルな情報流通の道を開き、各国間の距離を縮めたのです。
学者ジャック・ウェザーフォード氏によると、チンギス・カンは、国際法、グローバル貿易、プロフェッショナル化など、現代のグローバル社会におけるいくつか重要な枠組みを構成したといいます。
モンゴル帝国から元王朝時代にかけては歴史上初のグローバル化時代であり、当時の帝王たちが施した法治体制や自由貿易、知識共有、信仰の自由、外交特権、国際法、国際郵便体制などは近代社会に大きな影響をもたらしています。
チンギス・カンは、帝国という形をもって平和な時代を作り上げ、ヨーロッパ近代文明の発達は、実はモンゴルによる統治のおかげであるとウェザーフォード氏は考えています。
活字や方位磁針、火薬など、モンゴル人を通じてヨーロッパに伝わったとされ、“当時のヨーロッパ人の技術や戦争、ファッション、商業、芸術、文学、音楽など、ほぼすべての分野がモンゴルの影響を受けている。しかし、ルネサンス期から変化が起きたのである”とウェザーフォード氏は述べています。
文明を広げる重要な媒体――貿易
モンゴル人は遊牧民族であり、生産や耕作に長けておらず、主に物々交換といった形で必需品を入手しています。そのため、チンギス・カンは商業や商人を重点的に保護しています。1218年、ホラズムとモンゴルは通商協定を結締しました。
しかしその後、ホラズムは協定を破り、モンゴルの商人をほとんど殺し、その後、モンゴルからの使者も殺しました。このことがきっかけとなってチンギス・カンは西征を開始しました。
チンギス・カンが初めて征服した都市では、まず詳細な人口調査を行います。期限を守って税金を支払えば、その都市の内政に口出しはしません。記載によると、チンギス・カンが唯一入った都市はホラズムのブハラ(現在のウズベキスタンのブハラ市)であるといいます。基本的に軍隊を郊外に駐屯させて、都市管理を現地の者に任せているのです。
現地の住民たちはホラズム時代よりも自由に貿易することができ、これにより、シルクロード上の重要な古都サマルカンドは非常に繁栄するようになりました。
今日サマルカンドで出土した金貨には、チンギス・カンの名前と「偉大なる世界の統治者」を意味するペルシア語が烙印されています。当時、功績のある商人を称えるため、チンギス・カンはこの金貨を授けていたといいます。
(つづく)
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