(続き)
決戦が差し迫っており、両軍は川を挟んで対峙しました。 一つの軍隊に少数の船しかない場合、どのように川を渡って敵を倒し、損失を最小限に抑えるのでしょうか?楚と漢の間の覇権争いの時、自信過剰の劉邦は韓信への疑心のために、問題を引き起こし続けました。しかし、将軍としての優れた才能を持つ韓信は、常に危機を解決し、敗北を勝利に変えるのです。
劉邦が関中に進入後、彼は数名の諸侯を降伏させ、彼の軍隊は3万から数十万に急速に拡大しました。したがって、彼は自分勝手に韓信の兵権を解除し、義帝の復讐をするという旗印を掲げて出兵しました。1か月以内に、彼は56万の軍隊を集め、楚の首都である彭城を占領しました。その知らせを聞いた斉州で戦っていた項羽は、わずか3万の兵力で都に駆けつけ、漢軍を撃破しました。 劉邦はこの戦いを逃げ切り、何とか命を取り留めました。その後、彼は滎陽(けいよう)を守るため、漢王朝の基盤を救うために再び韓信を使うしかありませんでした。
この時、もともと漢に降伏していた諸侯たちは再び楚に戻り、項羽と力を合わせて漢を攻撃しました。そして、紀元前205年6月、魏王の豹は親族へのお見舞いを口実に、黄河の東にある魏国に戻り、すぐに黄河の渡り口である浦津関を封鎖し、漢に反抗し、楚を支援することを宣言しました。その領土は、西側は関中を攻撃し、南側は関中と滎陽の接続を遮断する、特別な戦略的要地となるため、豹を倒すことが劉邦の最優先事項となりました。
8月、危険が迫る中で進軍を命じられた韓信は黄河の西岸に近づき、魏軍と対峙しました。豹は黄河沿いに重兵を配置し、漢軍の東進を防ぎました。漢軍には古船が100隻ほどしかなかったため、黄河を渡って直接戦うには重大な犠牲を払わないと勝てない状況でした。しかし、韓信は速戦・速決の戦略を取り、かつての「陳倉を暗くして渡る」戦略より遥かに巧妙且つ精密な戦争の軌跡となる方法を考えてきました。
表では、韓信は灌嬰(かんえい)将軍を送り、1万人の兵士と軍艦を率いさせ、蒲坂の対岸に集結させ、川を渡って攻撃するように装いさせました。魏王の豹はただちに各地から兵士や馬を派遣し、蒲坂を守りました。しかし、彼は韓信が裏ですでに漢軍の主力を率いて、河を沿って北上して、夏陽の古い渡り口に近づいていることを知りませんでした。あそこは地形が低く、河面が開いており、大軍が行き来するのに最適な場所であるほか、魏軍は騙されて、蒲坂に引き寄せられたことで、防御は空であり、漢軍が川を渡って奇襲するのに最適な場所となったのです。
しかし、ここで問題が生じました。漢軍は川を渡るための船を持っていなかったのです。韓信は冷静に軍を率い、夏陽に到着するとすぐに、兵士たちに木を切り、ロープで繋いだ「罌(おう)」と呼ばれる太鼓腹の形の小さな容器のようなものを沢山作るように命じました。誰もが半信半疑になりながらも、それを製造をし、韓信がいったいどのような軌跡を起こしてこの危機を乗り越えられるかを見ていました。
韓信は何十本もの「罌」を選び、「罌」の口をふさぎ、ひっくり返して長方形に並べ、ロープで結び、周りに木で固定して斬新な「木の筏」を作りました。このような独創的な発明は、神のように兵士を操る韓信だけが思いつくことでしょう! 漢軍は次々とそれを真似して沢山の「木の筏」を製造し、川を渡るのに十分な道具を作ることに成功しました。このようにして、漢軍は魏軍を警戒させることなく、魏国の軍事拠点である安邑に直行します。
魏王の豹は安邑が倒れたことを知ると、すぐに軍隊を率いて救出に向かいました。しかし、意外なことに、魏軍が蒲坂を離れると、灌嬰の軍隊はすぐに船で川を渡り、攻撃を開始しました。魏軍は蒲坂と安邑に同時に攻撃され、当然、全軍が敗北し、魏王の豹は生け捕りになった。韓信にとって全行程はわずか1か月で、「川を渡る木製の罌」はまたも彼の名を刻む戦いとなりました。
韓信の魏を倒した奇跡的な戦略は、川の渡り方が独特なだけでなく、東側を攻撃すると宣言しながら、実際は西側を攻撃する、いわゆる「声東撃西」戦術であり、相手は彼の戦術に翻弄されていました。この戦いの末、韓信は関中・黄河地域の脅威を取り除き、彭城で敗れた漢軍の勢力を取り戻すことができました。同時に、韓信の名声は各界の君主たちの間でますます広まりました。
(つづく)
(參考資料:《史記》)
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