高智晟著『神とともに戦う』(11)半握りの煎り大豆

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私は、母が私を生み育ててくれた所へと戻って来た。この洞窟、我が家、そして山道、目にするものすべてが私を追憶へといざなう。私の脳裏は、母の姿かたち、声、面影と笑顔で満たされる。

 私が生まれた洞窟を、母は数年前人にあげたので、今では他人が住んでいる。私たち兄弟姉妹はここで生まれた。そしてまさにここで、母は私たち兄弟姉妹を育て上げたのである。洞窟内のオンドルは、4人で寝る分には比較的ゆったりしているが、5人だときつい。父が存命中、ここに9人で寝た。物心ついてから、私は4番目の弟と父の3人で、1枚の布団で寝ていた。これは、父が亡くなる前に病院へ運ばれるまでずっと続いた。1枚の布団を独り占めする幸せは、我が家の誰ひとりとして味わうことはなかった。

 毎晩床に就くころ、みんながきちんと寝られるようにと、知恵を絞る両親を覚えている。そのことを、後に母は冗談交じりにこう言った。「毎晩、お前たちが何とか寝られるようにと、全身汗びっしょりになったんだよ」。母は、このように寝る前でさえも、全身汗だくになる苦しい状況のもと、我々を育て、一人また一人と社会へ送り出したのであった。

 私の生まれた洞窟の外には、外の世界へ通じる1本の小道がある。中学の3年間、母は毎日変わることなく、この通学路の小道で私が学校へ行くのを見届け、夜も決まってそこで私の帰りを待っていた。厳寒の冬も酷暑の夏も、そしてどれほどの悪天候であったとしても。

 ある晩学校から戻ると、母はいつも通り小道で待っていた。山道を駆け下りる私の足音を聞くと、母は決まって私の幼名を叫ぶ。あの日も例外ではなかった。でも普段なら、母は私の返事を聞いた途端、急ぎ帰って熱々のご飯を準備してくれる。けれど、その日は少し様子が変だった。母はいつものように先には帰らず、私が来るのをずっと待っていた。しかも、私が来ても母は動かなかった。並々ならぬ雰囲気を感じた私は、「母さん」と叫んだ。母は、私のほほをなでるとこう言った。「潤彗(高弁護士の幼名)、あのね、もう我が家にはひと粒の米すらないの。今日、下の子をつれて、親戚に借りに行ったんだけど、ダメだったわ。今晩、お前たちに食べさせてやれない。でも、明日は何とかするから。今晩は早く寝なさい」。そして、私の手を引き我が家へと戻った。

 その晩、私はひそかにずっと泣いていた。枕がビショビショになるほどに。これは、空腹のためではない。父が早くに逝ってから、私たちは母の苦労を幼くして分かっていた。この大勢の我が子に食べさせてやれない、母の辛さはいかほどだろう。しかもこれらの子どもは、一晩明けた後も生きて行かねばならない。食べ物をどう工面するのか。その夜、母が一睡もしなかったのを私は知っている。

 翌日、まだ夜も明けぬころ、母はいつも通り、私を学校に行かせるため起こした。母は私を送る道すがら、私の手を引き、半握りの煎り大豆を手のひらにおいてくれた。 母の手から受け取った煎り大豆は少し湿っていた。その温度から、母はずいぶん長いこと、この煎り大豆を手に握り締めていたのが分かった。外はまだ暗いから、母の顔は見えなかった。でも私の目からは、糸の切れた数珠のごとく、涙がこぼれおちた。同じく腹をすかせている弟や妹に食べさせてほしいと、私は頑なにその半分を押し返した。でも、母は首を縦に振らない。私は一歩も動かず、声を上げて泣きながら決して譲らなかった。一方の母は終始泣きもせず、頑として私を学校へ向かう路へ押し出した。

 その日、夜もふけて村に戻ると、母は小道でいつものように私の名前を呼んだ後、急いで洞窟に戻った。それを見て、命をつなぐ食料が借りられたのだと私には分かった。

 28年の歳月が過ぎても、このシーンはぼやけることなく、鮮明な記憶として残っている。

 2006年1月26日、母の洞窟にて。

(続く)

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