高智晟著『神とともに戦う』(12)我が平民の母 1

 

【関連記事】
高智晟著『神とともに戦う』(11)半握りの煎り大豆

2005年3月6日午後4時24分、私の母は、限りなく愛したこの世を去って行った。我々兄弟姉妹7人にとって、これは母のいる時代の終わりであり、母のいない時代の始まりでもあった。

 母の最期のとき、私は母と同年代で、10年も陳情を続ける年配者たちの法律相談に対応するため、北京に戻ったばかりだった。4番目の弟の電話を受けた私は、その不吉な予感に我を失った。電話口では、40歳の弟の号泣する声が響いていた。この時、巨大な悲しみと心引き裂くような絶望が、周りのすべてを呑み込んで行った。私は、病院のホールで自分が泣き崩れた経緯を覚えていない。ただ、顔が当たった床の冷たさだけが残っていた。妻と義母に抱えられ、私はようやく、顔の大部分が感覚を失うほどしびれているのに気づいた。しかも、酸欠のため目の前はもうろうとしていた。私は泣きながら帰宅し、泣きながら夜を徹し帰省する支度をした。私の千里に及ぶ車の旅は、暗闇の中、こうして始まったのである。絶望と悲しみ、そして呆然を道連れにして。

 普段は5時間の道のりだが、私はもうろうとしていたため、8時間以上もかかってしまった。この道中は、途方もなく長かった。太原の姉の家で1時間ほど休憩したあと、私たちは再び、苦しい旅へと足を踏み出した。

 いまだに貧しくとも永遠に私を深い郷愁へ導く山里の村に戻るたび、出迎えの人々の中には、決まって母の姿があった。だが今回、初めてその母の姿が見えない。しかも、永遠に母はいないのだ。家族はみな、声を上げて激しく泣いた。そして、きつく閉められた棺(ひつぎ)を目にすると、私はもう悲しみをこらえられなかった。それから、庭を這いつくばりながら母の棺まで進んで行ったとき、心引き裂く絶望と底知れぬ悲しみは再び極限にまで達した。

 父の悲願を目標にした母

 67歳の母は、永遠に私たちのもとを去って行った。その67年の生涯の内、母は60年も貧しさと苦難にあえいだのである。

 6歳で父を失った母はわずか8歳の時、童養媳(トンヤンシー、男児の子守をし成長したらその嫁になる条件でおこなわれる身売り)に出された。母は私たちに、その当時の苦しみを数え切れないほど語り聞かせた。胸に刻み付けられたその苦難の数々は、一生をかけても語り尽くせはしない。身売り時代は4年に過ぎなかったにもかかわらず(母は12歳の時、ひそかに祖母の家に逃げ戻った)。

15歳のとき、母は再婚をする祖母について、その後52年を過ごすことになる小さな山里の村へとやって来た。母が52年過ごした後でも、人口は200人余りに過ぎない。当時どれほど寂れた村だったのかは、想像に難くない。

 母は16歳のとき、将来の私の父に嫁いだ。叔母の話だと、当時父の家は極めて貧乏だった。この貧乏から始まった結婚生活は22年続いた。この22年、始終変わらなかったのは貧しさである。叔母は、「貧しさで始まり、極貧で幕を下ろした結婚生活のほとんどの間、二人は貧しくとも幸せだった」と話す。母は17歳で長男を生み、25歳のとき、41歳の祖母を病気で失った。当時の私は、生後わずか40日の赤子であった。私の記憶では、祖母の話題になると、母は決まって涙で顔をぬらす。祖母への強い思いに、私も深い感慨を覚えたものだ。

 母は38歳で、41歳の父をがんで亡くした。父の死が母とこの一家にもたらした悲しみは、私のこの筆で到底書き尽くすことはできない。

 「いつか腹いっぱいの飯が食べたい」。それは父の一生の悲願であった。この最期までかなわなかった「父の願い」が、父の死後、家族をみな生き延びさせるという「母の目標」に変わったのだ。しかし、父が亡くなる前の悲惨な出来事によって、母のこの「家族をみな生き延びさせる」という目標は困難を極めることになる。父の治療のため、金に換えられるような代物はもう家には見当たらなかった。また私の兄は、もう採血不可能なほど父に輸血をした。一番上の兄はこのために、まともに歩けなくなってしまった。当時この兄だけが、家で唯一の働き手であったのに。

 もう虫の息になった父が洞窟の地面(死が近い病人は土間に下ろす)に横たえられたとき、心を引き裂く悲しみに襲われた。だがこれは、決して当時の母とこの一家の苦しみすべてではない。父が病院から担ぎ出された際、当時としては天文学的な額の借金が残された。その時我が家は、つまり母は、この厳しい現実を前にした時、父を失った子どもたちと同じく、呆然として為すすべがなかった。

 さらに棺が買えないので、地面に横たわる父を埋葬すらしてやれない。これは、哀れな母をさらなる絶望のふちへと突き落とした。当時のもう一つの現実、それは、大勢の腹をすかせた子供たちであった。一粒の食料すらないのである。唯一の働き手であった一番上の兄(労働技術を持っていたのではない)は、父への多量の輸血がたたり、しかも健康回復のための栄養を摂ることもかなわず、結果、生きていくのがやっとの状態に変わり果てた。母とその子どもたちは、当時底なしの貧乏の窮地にいたのである。

 こんなことわざがある。「山窮水尽疑無路、柳暗花明又一村(注)」。貧乏を極め希望を失いかけた時でも、その暗闇から明るい光が差し込むという。つまり、苦難の後の希望の光は、決まって現れるものなのだ。だが、母はこの幸運に恵まれなかった。父の死後20年の間、母はずっと貧しさと向き合うことになる。(注、南宋の詩人・陸游の詩「游山西村」に見られる「山重水復疑無路、柳暗花明又一村」による)

 (続く)

【関連記事】

高智晟著『神とともに戦う』(13) 我が平民の母 2