高智晟著『神とともに戦う』(25)中国の弁護士の悲哀

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私が弁護士となって最初に引き受けたのは、無償の裁判であった。その後、毎年3分の1の精力は、貧しい人々のため無償の裁判へと注いだ。7年来、この点は常に一貫していた。北京に入り、いくらか蓄えが出来、食べることへの心配もなくなってからは、私はより多くの力を「比較的大きく広い領域」へと傾け始めた。つまり、社会的集団における不公平、および制度上における不公平に向けてである。

弁護士が案件を処理する場合、直接追求するのは当事者の合法的な権益である。この点に疑いの余地はない。だが、どの案件においても、社会的モラルの価値がより広く認められ、より大きな関心を集めてほしい、と私は願う。すなわち、私たちはもう個別案件の利益という枠を超えたといえよう。

子供の医療事故に対して法律援助をする場合、2つの側面を考慮する。1つは、障碍(しょうがい)を負った子供の運命。もう1つは、社会道義およびこの種の医療事故を処理する上での法律上の問題である。

国営企業の買収案件を引き受けた場合はどうか。企業制度改革は、中国の経済改革にとって一種の試みである。誤った司法判決によって、この実践を否定してはいけない。

では、私有住宅の強制立ち退き案件についてはどうか。我が国は早くも1954年に、「私有不動産は『憲法』の保護を受ける」と規定した。だが、1956年の「社会主義改造」(訳注、反右派闘争を指す)によって、私有財産とその持ち主は壮絶な抑圧に遭った。しかもこのような抑圧は、21世紀の今日まで続いているのである。

私は裁判のほかにも、次々と文章を発表してきた。そのためこの数年、一部の領域では私の声が少なくない。昨年は何度も、この筆で、「国有の暴力」を利用して公民の私有財産を破壊する行為を批判した。少なくとも強制立ち退きの領域では、いわゆる「釘子戸(釘のように決して動かず、立ち退きを拒否する家)」への侮辱を払拭することが出来た。だがこの2年ほど、国内メディアにおいて私の言論が制限され始めたのも、これらの文章が原因の一つとなっている。

今日、関係部門は私に「公民に対する残虐な暴力行為は中央の意思ではない」と言い放った。私は、「そうですね。わたしも、中央が各レベルの官僚に対して、公民に暴力を振るうような決定を下したとは考えたこともありません。しかし、中央は制御できず、放任しています。時には故意の放任すらあるのです。これこそが中央の責任に他なりません」と答えた。

すると彼らは「国は三令五申(さんれいごしん:何度も繰り返し命令すること)して、地方権力が公民へ暴力を振るうことを禁じて来た」と切り返す。それに対する私の答えはこうだ。「『三令五申』が何だというのでしょう。これは憲法の上にあるのか、それとも憲法の下にあるのか……。立派な国の憲法でさえ名ばかりで何の力も持たないのに、三令五申がなんの役に立つのでしょうか」

彼らは「中国人はモラルが低いから、もし中国人にデモや示威活動の自由を許したら、必ず社会の混乱を招く」と言う。そこで私は尋ねた。「ではなぜ、『デモや示威活動の自由』を公民の権利として憲法に書き込んだのでしょう。世の人を騙すためか、それとも彼らに仕掛けた罠なのですか。あなたがたは、これらの権利を憲法から削除することもできます。それをしたら恥知らずなことですが、その『真の恥知らず』は、また『恥知らずの真実』とも言えましょう。なぜなら、この憲法が偽物ではなく、本物であることを証明することになるからです」

 (続く)
 
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