(続き)
1951年、蕭光琰(しょうこうえん)が帰国してからまだ9カ月も経っていない時に、中国共産党は知識人を対象にした「思想改造」運動を開始しました。アメリカでの留学経験を持つ彼は「重点批判の対象」とされました。最もよく聞かれた質問は、「アメリカでは生活条件が良かったのに、なぜ中国に帰国したのか」でした。蕭光琰は呆然としました。自分の理想主義的な奉仕精神を信じてくれる人はなく、大きな悪意と卑俗な思考で疑われたのがショックでした。
憤慨してメガネを地面に投げつけ、抗議しました。自分が情熱をかけ手に入れたものに、冷たい水をかけられた気分で、非常に傷つきました。彼は家族に対し、「私は党を愛し、危険を冒してまで帰国したが、党は私を愛していないようだ。私は蚊帳の外に置いてかれた。新しい中国に対して、私は『失望』してしまった……」と語りました。
もし初めての運動が蕭光琰に「失望」を感じさせたとすれば、その後すぐに続いた運動は彼の心を「血まみれ」にしたでしょう。1958年、中国共産党は「資産階級学術観点」を持つ人々を「白旗」として指定し、批判や闘争の対象としました。蕭光琰は再び攻撃の対象となり、研究所では彼を批判する大きなビラが貼り出されました。
所属部署が開催した新年会では、蕭光琰を風刺するために「洋博士現形」という活劇が特別に編成されました。幕が開くと、小さな鈴の音が聞こえ、彼の特徴に合わせて化粧したピエロが登場しました。ピエロは自己紹介で、「私は博士の蕭です。親が悪事を働いて得たお金でアメリカで博士の学位を取りました。共産党が中国で権力を握ったと聞いたので、データを盗んで中国に入り、役人の地位を手に入れようと思っています…」と言わせたのです。
蕭光琰は、目の前の光景に驚きました。激しい悲しみと屈辱が彼の心を飲み込んでいきました。そして、彼は無力感に打ちひしがれ、「これはよくない、とてもよくない……人を嘲笑うのはよくない……」と独り言のようにつぶやきました。このような人格を侮辱する行為は、彼を長い間、精神的に消沈させ、仕事に対する意欲をなくさせました。
「白旗撤去」運動を乗り越えた後、しばらく落ち着いたと思ったら、さらに酷いあの十年にわたる「文化大革命」が嵐のように突如降りかかりました。何度も危機に陥った蕭光琰、今回は難を乗り越えることができるでしょうか?
1968年10月5日夜、化学物理学研究所は20人に及ぶ逞しい男たちで「専制隊」を組み、全身武装で車に乗って蕭光琰の家にやって来て、すべての貴重品を押収しました。その中には、孫中山(元中華民国総統)が贈ったと言われる家宝の指輪までもありました。病気だった蕭光琰は逮捕されて「牛棚」に捕らえられました。妻の甄素輝も「労働による改革」のために強制的に農場に送られ、家族は一瞬にしてバラバラになってしまったのです。
厳しく終わりのない「尋問」が始まりました。「専制隊」は「三角帯」という特製の刑具を使って蕭光琰を激しく殴打し、なぜ帰国したのか、アメリカの情報を盗んだかどうかなど「過去の問題」について回答を強要しました。「専制隊」の一人は、現地の人々が「白」「博」の語呂合わせで使う方言の特徴に基づいて、「白屎」というあだ名をつけ、博士号を嘲笑しました。精神と肉体の二重の苦痛の中、蕭光琰は26件の「自白」資料を書くことを余儀なくされました。
12月6日、蕭光琰は激しい鞭打ちを受けました。もうろうとした精神状態に陥り、4日間連続でつぶやき続けました。「共産党の政策は道を譲るだろう…」と。しかし、12月10日にさらに厳しい「尋問」と、より残忍で無慈悲な鞭打ちにより、彼は窮地に陥りました。12月11日の朝、「専制隊員」が蕭光琰に起き上がるよう命じましたが、48歳の彼が二度と目を開けることはありませんでした。死因は、睡眠薬過剰服用による自殺。
しかし、情報機関は何の罪悪感も感じることなく、自殺は「階級の敵の絶望的な選択」であると「特大朗報ニュース」として報じました。良心の呵責もなく、蕭光琰が自殺したことを「階級敵の必死の選択」と称えました。その日の午後、妻の甄素輝を研究所に呼び出し、「反革命特務分子の蕭光琰が裁きを恐れて自殺した」と伝えました。夫の死を知った甄素輝は非常に冷静で、夫の遺体を見て、二日間の休暇を取って、久しぶりに娘がいる実家へと帰りました。
その後の三日間、すなわち12月13日までの間、隣人はこの家族を一切見ておらず、ドアをノックしても反応はありませんでした。ドアを開けると母娘二人は、布団に包まれ、ベットに密着して横たわっていました。彼女たちは既に息を引き取っていて……結局、彼女たちは蕭光琰と同じ方法で命を終えたのでした。
かつて、蕭家の才子は熱意に満ちたまま、祖国に戻りましたが、彼は誤って中国共産党を親戚だと思い込んで、何度も中共の嘘を信じ、その代償として何度も残酷な迫害を受けました。最後は一身に傷を背負い、苦痛と絶望を抱えたまま亡くなってしまいました。それは本当に哀れで悲しいことです。
(完)
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