意気が阻喪して怖気づいた者は、なんでもないことに驚きあわてること(Shutterstock)

風聲鶴唳(ふうせいかくれい)【ことわざ】

【風聲鶴唳(ふうせいかくれい)】

風の音や鶴の鳴声を聞いても、敵の追撃かと疑って、恐れること

→意気が阻喪して怖気づいた者は、なんでもないことに驚きあわてること。

紀元383年、前秦の王・符堅が東晋と戦うために、百万の軍隊を率いて陣を列ね、淝水に臨みました。東晋の将軍・謝玄が使者を遣わして、秦王の弟の符融に、「秦軍は岸に陣を列ねているだけで、すぐに我が軍と決戦しようとしているようには見えません。秦軍は少し後退し、我が軍に淝水を渡らせてから決戦したら、如何でしょうか」と提案します。

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「一字千金」は元々、呂不韋がこの方法で民情を把握し、国民を支配しやすいことを指しましたが、後に文字または文章が非常に優れていることを形容したり、時には、文章の中で、ある文字の書き直しが非常に重要で、千金に値することを形容するようになりました。
北宋の仁宗の時、宰相呂夷簡が、保守政策を実施して財政難をもたらしました。そこで、范仲淹(はん ちゅうえん)をはじめとする革新グループが、積極的に時弊を正し、新しい政策を推進するために、蘇舜欽(そ しゅんきん)を集賢院の校理官(官名)の任に就かせ、上奏官(官名)をも兼ねさせました。
秦二世元年(209年)、秦朝の統治に抵抗するために、陳勝・呉広が大澤郷でむしろ旗を立ち上げ、他に多くの郡県の民も蜂起していました。沛県知事も蜂起しようと思い、沛県の山中に身を隠している劉邦(後の漢の高祖)を呼ぶつもりでしたが、後に考えを変えて、劉邦が町に入ることを阻みました。
このことわざの由来となった物語は九世紀の中国で起きました。当時の中国は、北方で強大な勢力を持つ隋朝に対して、南方には小さな国がいくつかありました。建康(今の南京)を都とする陳国はその一つで、随朝は南方の国々の統一のために、陳を虎視眈々と狙っていました。
ある人が劉備に諸葛亮を推薦しました。彼が稀代の天才だというのです。そこで劉備は、関羽と張飛を連れて隆中の諸葛亮に会いに行きました。ところが、諸葛亮はあいにく不在で、どこに行ったのか、いつ戻るのか、わかりませんでした。劉備は非常に残念でしたが、しかたなく引き返すことにしました。