「梵天丸」考 

今を去ること約400年以上前、日本列島は戦国時代であった。そんな中、東北地方に一人の英雄が誕生した。後の初代仙台藩主・伊達政宗である。彼は、後に戦乱の東北を平定する「奥州の独眼流正宗」として逞しく成長するのであるが、幼少の頃に疱瘡を患い、不運にも片目を失明してしまった。それゆえ少年時代はすっかり内向的で消極的な性格であったという。

 彼は幼少の号を「梵天丸」と称し、伊達家第十六代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫との間に生まれたのであるが、母であり男勝りの気性で知られた「鬼姫」義姫は、次男の小次郎を偏愛し、あろうことか梵天丸に毒を盛り殺害しようとした。正宗は、後に「あれは母の過失ではない」と庇ったというが、過酷な戦国時代の悲劇といえよう。

 そのような環境にあって、梵天丸に目をかけたのは父の輝宗と教育係りの片倉景綱であった。景綱は時に折、梵天丸の文武の才能を発見し、輝宗に推挙、梵天丸にとって「人生最大の転機」が訪れる。父の輝宗が、腺病質の長男の「行く末」を案じ、当時京都で随一と謳われていた臨済宗の名僧「虎哉禅師」を教育係りとして梵天丸に付けたのである。当時、禅師43歳、梵天丸6歳であったという。

 虎哉禅師の教育には有名な逸話がいくつも残っているが、禅師はまず幼い梵天丸を井戸のほとりに連れて行き、中を覗かせ、このような問答があったという。

 -もし、この井戸の中に誰かが石を投げ入れ、水が湧いて出てこなくなったら、お前はどうする?

 「・・・・・(無言)・・・・・」

 -さあ、どうする?

 「はい、(恐る恐る)井戸の中に降りていき、石に縄を括りつけ、そしてまた井戸の外に這い出して、縄を引き上げて石を取り除きます」

 -(わが意を得たりと)そうだ!もし、やることをやらないで、おまえがナンマイダ・・・ナンマイダ・・・などと念仏など唱えていたら、おまえの頭を小突いてくれるからな!

 一体全体、禅師は何を言いたかったのであろうか?あまりにも当然の受け答えである。2500年前に中国・泰山の孔子が「人事を尽くして、天命を待つ」と言ったが、これにも一脈通じるようにも思える。しかし、日本の戦後の宗教、特に「信教の自由」を逆用して日本の一般市民の中に入り込む「カルト系」の考え方は、「人事を尽くす前に、天命を語る・・・(あるいは)天命を断じる」というものである。

 禅師はまた、後年において、正宗の父・輝宗を拉致した畠山義継を討ち、その首を晒した正宗を「二本松周辺をさらに混乱に戻してしまった」と棒で打ち据えている。これは、仏師としての「慈悲」はもとより、戦略家としての未熟さ、統治者としての責任感をさらに指導したかったからだろう。日本人一般大衆が戦国時代武将の生涯エピソードを大変に好むのは、学ぶべきところが多い「人生の知恵」をそこに見出しているからなのかもしれない。