愛に重さなし

【大紀元日本9月6日】あるヒンズー教徒が、歩いてヒマラヤの聖地へ巡礼に向かった。

道のりは遥か遠く、山道はでこぼこで、空気はとても薄かった。背負っている荷物は別に多くはなかったが、息が切れて、先へ進むのはとても厳しかった。

彼は歩いては休み、休んでは歩き、絶えず前を見渡し、目的地が早く目の前に現れないかと望んでいた。しばらく行くと、前方に、まだ10歳にもならないと思われる幼い女の子が見えた。彼女は、よく肥えた子供を背負い、ゆっくりと前へ進んでいた。彼以上に息を切らし、汗びっしょりだったが、背中の子供を大事そうに両手でしっかり支えていた。

ヒンズー教徒は女の子の脇を通るとき、気の毒そうに、「疲れるだろう。ずいぶん重そうだもの」と言った。

すると、女の子は不機嫌にこう答えた。「あなたの荷物は重いかもしれませんが、私が背負っているものに重さなんてありません。自分の弟ですから」

確かに、ハカリの上では、弟であろうと荷物であろうと、いずれも重さがあるが、心に照らしてみると、女の子の言うとおり、彼女が背負っているのは弟であって、それに重いも軽いもない。

彼女は弟に心の奥底から湧き出るで接している。愛には重さはなく、負担でもない。それは、ある種の喜びを伴う思いやりであり、見返りを求めることなく尽すことなのだ。

(翻訳編集・李頁)