【呉校長先生の随筆】 ー娘の表彰状ー

【大紀元日本2月1日】我が家の二番目のは、15歳になるまでに3つの幼稚園と2つの小学校、そして3つの中学校を渡り歩き、娘自身も学校遍歴の最多保持者だと自称しています。3つの幼稚園を転々とした理由は、娘が昼寝をしなかったからでした。昼寝の時間に一人で遊んでいると他の園児に影響をおよぼすと、先生からその都度相談を受けました。私は早めに小学校へ入学させたほうがよいと考え、そうしましたが、それが失敗だったことに後になって気付きました。

一年早く小学校に入学した娘は、他の1年生に比べて精神面で追いつけず、国語と算数でつまずいてしまいました。娘は基本的な学習力と注意力が不足しており、漢字は符号のように見えるし、数の計算の問題だけでなく、数の概念すら理解できませんでした。時間が経つにつれて、私も段々と我慢できなくなりました。

娘が小学校の中学年になり、中間テストが終わった時のことです。娘を学校まで送りとどけましたが娘は今にも泣き出しそうになり、教室に入ろうとしません。算数の張先生は非常に厳しくて、娘が今回のテストで失敗したことも知っていました。先生は悪い点数を取った生徒に対して、必ず罰を与えるとも聞いていました。私は、「パパに話してごらん、テストの40点がそんなに深刻な問題なの?」と娘に優しく聞いてみると、涙にむせんだ娘は、「パパ、40点じゃなくて、7点だよ」と答えました。私は一瞬驚きましたが、すぐに気を取り直して「まぁ、2カ月間努力しても7点しか取れなかったのは、君のせいではないでしょう」と娘の肩を軽く叩いて励ましました。娘は泣き止んで私を見上げました。

「張先生が君に、計算のやり方を最後まで分からせようとしなかったことと、我が家の遺伝子の問題もあると思うね。実は、パパも数学音痴で、昔はよく3点とか5点とか取っていたからね。君は7点取れたということは、パパよりも優秀ということだよ」と私が話すと、娘は安心した様子でようやく教室に入って行きました。私はその後、張先生に協力してもらうために先生にも電話を入れておきました。

その日の午後、娘は帰宅すると、「張先生はとてもいい先生。今回はクラスで誰も罰を受けなかった」と興奮して話してくれました。私は張先生に協力してもらうために、ずいぶんがんばりました。娘は何も知らないはずでしたが、その日から私を慕うようになったのを記憶しています。

その後、親子関係が変わってから娘は、学業はもちろん、体育、道徳、その他の授業においても素晴らしい成績を残す子どもだと分かるようになりました。小学校3年生の時、冬季の救済活動で2百元(約600円)寄付したことで、彼女は生まれて初めて表彰状をもらいました。私が裁判所でボランティアしていた時の証書を飾っていた額縁に、娘の表彰状をきれいに入れて娘の部屋に飾りました。

1年後、娘は2枚目の表彰状を持って帰って来ました。縄跳びの試合では4年生の部で1位でした。今度も私の少年補導協会ボランティアの証書と、娘の表彰状を入れ替えて飾りました。そして、娘には「パパは1位を取ったことはなかったよ」と言って褒めました。中学校に入ってから、娘は全校絵画コンテスト部門で第2位を獲得しました。この学校は娘にとっては3つ目の中学校であり、娘の気持ちがとても落ち込んでいる時期だったので、私は時間を割いて学校まで行って、校長先生と共に娘の絵画を鑑賞しました。そして、全国補導実績優秀者を称える自分の表彰状の額縁を娘に譲りました。

美術、デザイン、図工が得意である娘はその後、家政科で編み物を習い、私に似合う素敵な紫色のマフラーを編んでくれました。ある日、マフラーをつけ忘れた私のことが気になった娘が、「パパは私の編んだマフラーが気に入らないのかな」と妹に聞いていました。それからは4月中旬まで、どんな暑い日でもマフラーをして仕事に行きました。

1カ月後のある日、娘は感動した面持ちで「パパは本当に偉いね・・・」と話しかけてきました。私は嬉しくて「そうか、そうか」と答えながら、人を褒める時は、具体的に何についてなのかを話しなさいと娘に言いました。娘は「パパは、私のことを一度もあきらめなかった」と言いました。「本棚管理班長」である娘の名札を読み上げながら、「そうだよ。パパの偉いところはそこなんだよ」と笑顔で娘に答えました。

※呉雁門(ウー・イェンメン)

呉氏は2004年8月~2010年8月までの6年間、台湾雲林県口湖中学校の第12代校長を務めた。同校歴代校長の中で最も長い任期。教育熱心で思いやりのある呉校長とこどもたちとの間に、たくさんの心温まるエピソードが生まれた。

 (翻訳編集・大原)