【大紀元日本3月12日】悠久の時を超えて現代に伝わる「神伝文化」。中国古代の伝説や神話の中にちりばめられた智慧と芸術の結晶を、今年も神韻公演で味わえる。4月20日から始まる日本ツアーに先がけ、古代中国の美を追求する神韻芸術団のスタッフのブログを紹介する。
文:オフィリア・ウー(Ophelia Wu)
神韻芸術団プリンシパルダンサー
一回目の公演が順調に終わり、オフを利用して訪れたのは、カナダの首都・オタワの国会議事堂。オタワ川の土手から見える中世ヨーロッパのゴシック建築群は、とても美しい光景でした。私が最も惹きつけられたのは、この美しい眺めだけでなく、人の心を明るくする自由な雰囲気。辺りを見渡すと、武装した警官など1人もおらず、かわりにたくさんの観光客が写真を撮りながら楽しそうに広場を散歩していました。
中国大陸で育った私は、厳重な警備が敷かれた中南海の光景に慣れてしまっています。中国の国会議事堂にあたる人民代表大会会堂の周辺では、3歩歩けば警官に、5歩歩けば警備員にぶつかります。警備の「ゆるい」カナダの国会議事堂を目の当たりにして、少しあっけにとられてしまいました。同じ時代に存在する二つの国家がこれだけ異なる理由は、一体何なのでしょうか?広場で出会った1人の男性が、その答えを教えてくれました。
20代の男性が、厚いダウンジャケットを着て広場の隅に立っていました。彼の前には堅いダンボールで作られたプラカードが置かれています。そこには、「中国で行われている暴力による建物の取り壊し、強制立ち退きを止めさせよう」、「STOP Black Jails In China」(中国の闇刑務所を撲滅しよう)と書かれていました。
彼の両親は中国で家を取り壊され、政府に請願しましたが、闇刑務所に収容されてしまいました。この施設には法律が適用されず、人権侵害や虐待が日常茶飯事に行われています。家族を救うため、彼は毎日広場へ来て、極寒の中、何時間も立ったまま静かに請願しています。彼の家族だけでなく、無実の罪で投獄されている請願者たちのために、毎日立ち続けているのです。赤い顔をした彼は両手をポケットに突っ込み、時々足をふみならして寒さを凌いでいます。しかし、彼の顔には少しの恨みもなく、穏やかで確固たる意志が見えました。
彼を見ると、私は法輪功の人たちを思い出します。彼らは信仰の自由を守るため、雨にも風にも負けません。彼らは不法に監禁され、ひどく殴られ、財産を没収され、家族はバラバラになりました。風が吹きつける寒い日でも、太陽がじりじりと照りつける暑い日でも、彼らは自分たちの信仰を守るために、ひたすら中国領事館の前で静かな抗議を続けます。彼らには恨みも後悔もありません。彼らの毅然とした姿を見るたびに、私は杜甫の詩にある「たとえ私の家が壊れて、凍死しても満足だ」という言葉を思い出します。
本当に、とても皮肉なものです。一つの政府が自分の民を保護できないばかりか、かえって残忍な手段で彼らを迫害し、最終的に彼らは国外へ逃げるしかありません。彼らが他国の政府に庇護を求めると、中国政府は彼らを売国奴と呼び、海外の「反中国勢力」と結託しているなどと、批判するのです。
ですから、なぜ民主主義国家の政府が国民に対してオープンなのか、なぜ中国政府が永遠に国民を制限しているのかが分かります。
更に私をがっかりさせるのは、多くの中国人がこれらの問題に対して、すでに麻痺していること。ひいては、中共と異なる声を発したら、反逆だと考え、たとえ刃物で傷付けられても自分のせいだと思ってしまいます。このような人たちは、国会議事堂前の広場で抗議のプラカードを見ると、軽蔑した目をします。まるで、中国の面汚しだ、とでも言いたげに。一方、プラカードを見て足を止め、質問したり励ましたりするのは、金髪でブルーの瞳を持つカナダ人だったりするのです。
ひとりの中国人として、私たちは本当に自分の胸に手をあてて考えてみるべきです。私たちが家族と一緒に新年を迎えている時、一家団欒を楽しんでいる時、家族がばらばらになり、肉親を失い、苦痛を抱えている人は果たしてどのくらいいるのでしょうか。私たちが物欲と享楽の人生で目が眩んでいる時、迫害で両親を失い、頼るすべのない孤児が街をさまよっていることを忘れていないでしょうか。彼らは、中国政府による途方もない悪事に辛抱するべきなのでしょうか。
1年の始まりと共に、ひとつの問いを投げかけてみましょう:中国の将来は、一体どこへ行くのでしょうか?
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