【大紀元日本8月5日】能勢町は大阪府の最北端にあり、周囲を500~700mのなだらかな山に囲まれ、緑豊かな土地である。面積のほとんどを山林,田畑が占める。鉄道は通っておらず、商業施設もほとんど目につかない。大阪にありながら、都市の喧騒とは無縁に人々の生活は営まれているようだ。そんな能勢町に200年来、住民によって脈々と受け継がれてきた芸能文化がある。それが能勢浄瑠璃だ。
能勢浄瑠璃の始まりは、江戸時代末期、大阪へ医学を学びに出た杉村量輔なる人物が当時大阪で盛んであった浄瑠璃を習得し、能勢に持ち帰った。竹本文太夫を名乗り能勢の農民の間に広めたという。
能勢浄瑠璃の継承形態は独特である。家元制度を取るが世襲制ではない。現在では、竹本井筒太夫、竹本中美太夫、竹本東寿太夫を加えて、四派で継承している。家元はおやじと呼ばれ、5人前後の弟子をとって、本業の傍ら浄瑠璃を伝授する。その弟子の中から次代のおやじが生まれる。そのおやじがまた、知り合い縁者の中から新しい弟子をとり、彼らに伝承する。こうして、数年でおやじが交代することにより、能勢浄瑠璃の語り手が増えていくのだ。これを「おやじ制度」と呼んでいる。現在、能勢には200人の浄瑠璃語りがいるという。
能勢の浄瑠璃は素浄瑠璃と呼ばれ、太棹三味線と語りだけで聴かせる座敷芸であったが、1998年に人形と囃子を加えて人形浄瑠璃がデビューし、2006年には劇団「能勢人形浄瑠璃鹿角座(ろっかくざ)」が旗揚げした。1993年に建設された「淨るりシアター」を拠点に6月淨るり月間の公演、依頼公演、ワークショップ、体験講座などの活動が始まった。
今年も6月25、26日の両日、能勢の淨るり月間が催された。26日の公演を観て驚いたことが二つある。まず、こんな田舎に建つ「淨るりシアター」が都市の劇場にも劣らない設備を備えていること。そして、人形も浄瑠璃も、その完成度が実に高いことである。この驚きは、記者に「素朴な民間芸能」という先入観があったからというわけではない。
同公演の太夫の一人、竹本文玉太夫(本名・大植元信)さんと鹿角座座長、名月みのり(本名・狭間みのり)さんを後日、シアターに訪ねて話を聞いた。大植さんは、四派の一つ竹本文太夫派の脇太夫、つまり、次におやじを継ぐことになっている太夫さんである。
大植さんが文太夫師匠について浄瑠璃を始めたのは、16年前のことである。「古い人は40年、50年と続けていますよ」と大植さんは言う。地元の銀行に勤めていた大植さんは浄瑠璃を始めるなどとは思いもよらなかったと話す。「それに、若い時から吃音気味
竹本文玉太夫(大植元信)さん(撮影・Klaus Rinke)
だったので、自分に浄瑠璃が語れるとは思わなかったのです」「普通にしゃべるのと、腹の底から声を出して浄瑠璃を語るのでは全然違うのですね。今では人前で話すことも苦にならなくなりました」。勧められて仕方なく始めたのがよかったと笑う。入門してすぐに始める初稽古は、毎日続けて一節一節口伝えに伝授されるという。「時間を置くと、習った節を忘れてしまうので、毎日稽古するのです。私の場合は、60~70点xun_ハやりましたね」。昔は100日稽古と呼んで、農閑期を利用して行われたという。
狭間みのりさんが能勢人形浄瑠璃と関わるきっかけは
名月みのり(狭間みのり)さん(撮影・Klaus Rinke)
、15年前、能勢浄瑠璃鹿角座が旗揚げしたときに遡る。「オーディションがあったのですよ。人形好きが70人も応募して、35人が選ばれました」。現在も続けているのは25人だという。大阪文楽座の人形遣いが直接指導にあたる。「練習は、主遣い、左遣い、足遣いの3人が揃わないとできません。皆、家庭や仕事があるので、練習の時間を取るのが一苦労です」と狭間さん。「今年の淨るり月間の直前には、文楽座の吉田簑助師匠(人間国宝)が来てくださいました。一言二言注意していただくと皆すごくよくなるのですよ」と狭間さんは語る。それは、プロの一言にさっと反応できるまでに座員のレベルが高くなっているということなのだろう。
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