【大紀元日本8月26日】醤油のふるさと、湯浅は和歌山県の北西部、リアス式海岸に海が入り込んだ奥にある。天然の良港に恵まれ、漁業が盛んである。東には有田のみかん山が広がる。古くは熊野街道の宿駅として栄え、江戸時代には紀州藩の有田代官所がおかれていた。重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みの中に「角長」の醤油蔵はしっくりとある。
日本の醤油づくりの起源は、鎌倉時代に遡るという。13世紀中頃、信州の禅僧、覚心が南宋に渡り法を得た後、紀州に禅寺「興国寺」を開いた。そして、中国の寺に伝えられていた、なすや瓜などの野菜を漬けこんだ嘗め味噌、径山寺(きんざんじ)味噌の製法を紀州の人々に伝えた。その味噌を作るうち、製造過程で浸みだす液体が美味であるのを発見したことが、「湯浅の溜り」の始まりだと伝えられている。
その後、湯浅の醤油作りは発展し、江戸時代には醤油醸造所が92も軒を連ね、100石の溜り醤油が大阪に送られたという記録も残っている。当時、江戸ではまだ醤油の製造は行われておらず、上方から下ってくる醤油を「下り醤油」と呼んで珍重したという。後に、醤油製造法が関東にも伝えられ、江戸好みの濃い醤油が千葉県の銚子や野田で生産されるようになった。現在の大手醤油メーカーの源流である。
現在、湯浅で材料の仕込みから全て伝統的手法で醤油を製造しているのは、創業天保12年(1842年)の「角長(かどちょう)」1軒のみとなった。創業当時そのままという
仕込蔵(撮影・Klaus Rinke)
仕込蔵に入ると、懐かしいようなふくよかな香りが漂ってくる。薄暗い蔵の中には、もろみをたっぷりと満たした大桶がずらりと並ぶ。170年の年月に耐えた吉野杉の桶である。黒ずんだ壁や天井には酵母が白く浮かび上がっている。もろみの発酵に欠かせない「蔵つき酵母」で、もろみに味と香りを与えるという。
「角長」の当主は6代目加納誠さん(52)で、株式会社「角長」の代表取締役を務める。加納さんの長男で7代目を継いでいる加納恒儀さん(34)を仕込蔵に訪ねて話を聞いた。
醤油の原料は、大豆、小麦、塩である。他に加えるものは何もない。あとは時間をかけて、自然に発酵が進み、味・香り・色が醸成されるのを待つ。その間、1年から1年半、もろみの管理には気が抜けない。
「角長」の醤油に使われる大豆は昔から岡山県産、小麦は岐阜県から取り寄せる。大豆は圧力ボイラーで蒸され、小麦は煎って砕かれる。麹室で4日間寝かせて麹菌を増やした後、塩と水を加えて大桶に仕込む。仕込みは年に1度、冬と決まっている。その桶に仕込まれたものをもろみと呼ぶ。
醤油づくりで、一番大切であり、難しいのがもろみの
もろみを撹拌する加納恒儀さん(撮影・Klaus Rinke)
管理だと恒儀さんはいう。常に発酵状態を観て、上下の層を入れ替えるように撹拌する。ただし、かき混ぜすぎるのも良くない。長い竹竿で深さ2メートルは優にある桶を次々と撹拌するのはかなり力の要る仕事だ。34基ある桶の状態はすべてが一定というわけでもないだろう、まさに子供を育てるように見守り、手を掛け、大切に育まれているのだ。国内の熱心な顧客に加えて、食のメッカ、パリに展開する本物志向の日本食材店「ISSE」の定番商品になっていることにも頷ける。
今年、恒儀さんに長男が生まれた。「8代目ができましたね」というと、初めて恒儀さんの顔がほころんだ。2004年に旭日単光章を受けた祖父で5代目の長兵衛さん(82)を先頭に、加納家4世代の揃い踏みとなった。
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