中国伝統文化への誘い(八) 明

【大紀元日本1月27日】

なんで「ミン」なの

日本語による漢字の音読みは呉音、漢音、唐音と、それが日本に伝わった時の字音によって、同じ漢字でもずいぶん異なります。

という字を書いて「ミン」と読み、清を「シン」と発音するのは、いずれも唐音です。これは宋代以降の時代、つまり日本史で言うと鎌倉から室町時代あたりを中心に、日中間の人々の往来によって伝えられたもので、三種の発音のなかでは最も中国音に近い発音と言えます。唐音の唐とは、すでに存在しない唐王朝のことではなく、唐土(もろこし)すなわち広い意味で定着した中国という概念によるものです。

行灯(アンドン)椅子(イス)扇子(センス)饅頭(マンジュウ)湯麺(タンメン)などなど。この唐音という発音の面白いところは、禅宗を学ぶ留学僧や貿易商人によって断片的に日本へ伝えられたため、名詞ばかりが多くて、漢字の全てを網羅する発音大系にはなっていないことです。

おそらく当時それらの唐音は、ほとんど外来語として日本語の中に存在していたのでしょう。例えて言うならば、戦後、日本へアメリカの英単語が大量に入ってきたようなもので、語感としてはホットドック、ハンバーガーの類に近いと思われます。

明(ミン)という時代の明と暗

さて、そのミンですが、ある意味で確かにアメリカ的なのかも知れません。べつに豊臣秀吉が明(および朝鮮)を相手に戦争を仕掛けたからそう言うのではなく、明そのものが、良くも悪くも、権力と武力の作用でころがる巨岩のような性格をもっていたからです。

それでも、その明(1368~1644)が、約300年という長期王朝を保てたのは、言わばエネルギーの塊のような「民力」が、市民社会に至るはるか以前ではありますが、国家権力に対抗して、反対側から引っ張る綱引きのように作用していた結果だと言えるかも知れません。

中国統治の大命題は「いかに人民を食わせるか」ということに尽きます。飢餓による大量の流民が生じたときには、その王朝はすでに終焉が近づいていることを示すからです。

そのことを元末の混乱から学んだ明は、魚燐図冊(土地台帳)や賦役黄冊(戸籍・租税の台帳)を作成し、つとめて国家財政の基礎を固めたのです。

ところが明は、そのような実務とは裏腹に、政治の根本において中国伝統文化に基づく仁徳が欠けていたため、明末における民心の離反は極めて早く、結局は各地で農民の大反乱を招くことになります。

国の根本を誤った創業者

明は本来、モンゴル人の元から受けた影響を脱して、中国伝統文化の復興を目指さなければならなかったのです。

しかし残念ながら、それが実現されたとは言えません。明の宮廷内で真っ先に進められたのは、皇帝独裁とそれに直属する錦衣衛(秘密警察の一種)によるすさまじい恐怖政治でした。明朝建国の功臣をことごとく抹殺したことに加え、皇帝におもねる佞臣と宦官の専横がひどかったため、皇帝に対して命がけで諫言する憂国の忠臣が育たなかったのです。 

そういう意味において明は、万里の長城や大運河の修理拡張などの国家的な大事業は行うのですが、中国伝統文化の道徳観に基づく仁政にはほど遠かったということでしょう。

明の初代皇帝・洪武帝(朱元璋)は、尾張中村出身の太閤秀吉以上に、おそらく世界史上において最も貧賤の身分から頂点に昇った人物でした。

時は明の前王朝、元の最末期。紅巾の乱といわれる反乱が起こりました。これは白蓮教という宗教性を多分に帯びた大規模な農民反乱で、数においてはるかに少数だったモンゴル人には、もはやこれを平定する術はありませんでした。その紅巾軍のなかで頭角をあらわしたのが朱元璋だったのです。

中国はここで漢民族の統治に戻りました。しかし明の開祖である洪武帝と、その子で第3代皇帝の永楽帝は、いずれも残酷な君主であり、権謀と用兵の術には長けていましたが、中国伝統文化の徳目に基づく国の理想は目指さなかったのです。

文化不作の時代

明代の科挙には、いつ粛清されるか分からない国政の中枢に入ることは恐れながらも、ほどほどの立身出世と財産づくりを熱望する官僚志望者が殺到しました。その点では学問への志向は民衆の間に広がったと言えますし、それはまた「文化の大衆化」であったとも言えるのですが、中国古代の聖賢の理想とはかけ離れて、極めて形骸化した「骨抜き文人」が増えたことも確かです。

その結果として明代には、天下国家を論じるような骨太で力強い文章もなく、人類愛に満ちた秀逸な詩もほとんど生まれなかったのです。そういう意味において明は、文化不作の時代だったと言えます。

海外を相手とする交易は、非常に盛んでした。倭寇と呼ばれる日本の海賊が横行したのも、海上交易によって潤う中国沿岸部の存在があったからですが、実のところ、後期倭寇のなかには、日本人を装った地元民の海賊も相当多かったようです。

永楽帝の時代、鄭和(ていわ)の大艦隊がアフリカ東岸まで達する遠洋航海を行ったのも、多くの国に明の威力を示して朝貢関係を結ばせ、交易をさらに盛んにする目的があったからです。

それにしても驚くのはその船団の規模で、『明史』によれば、最大の船が長さ137メートル幅56メートル、その数62艘だったといいます。ヨーロッパの大航海時代に先駆けること約1世紀。同時期のヨーロッパ船がせいぜい長さ30メートルだったのに比べて、木造による137メートルの巨船というのは、まさに度肝を抜く大きさです。

明代文化の活路は実学

明は、確かに同時代の世界史において超大国でした。しかし、自国の民へのいたわりがどれほどのものだったかは、明17代(重祚を除けば16代)の皇帝のうち、名君の世は短く、暴君・暗君の世が異常に長かったことを思えば、およそ想像がつきます。

ただ、明史のなかで評価するとすれば、実学の発達を挙げるべきでしょう。

李時珍の『本草綱目』(薬学)、徐光啓の『農政全書』(農学)、宋応星の『天工開物』(農工技術)などの実用書が著され、日本でも長く用いられました。また工芸の分野では、景徳鎮をはじめとする陶窯が、明の赤絵・染付などの名品を生み出しました

洪武帝は、宋代以来の儒教の中心である朱子学を官学に制定して奨励し、また永楽帝は、国家の文化事業として叢書『永楽大典』『四書大全』などを作らせました。しかし、暴君のもとで奨励される古代の聖賢の思想は、その道徳性において説得力をもたず、また、国家が経典の解釈を指定したため朱子学は権威をもつと同時に硬直化し、学問の思想的発展はほとんど頓挫してしまったのです。

その閉塞状況に新風を吹き込んだのが、王守仁(1472~1529)でした。日本では、その号である陽明のほうがよく知られています。

王陽明自身はほとんど著述を残していないので、その思想は、弟子たちが師の言行を記録した『伝習録』から覗うしかありません。「心即理」「致良知」「知行合一」などの言葉に表されるその思想は、儒教の全体系に及ぶものではありませんでしたが、閉塞状況にあった明代朱子学の倫理面において、その不足点を突いたと言えるでしょう。

「心の良知を物事に及ぼし、またそれを実際行動として具現化する。そうでなければ無知に等しい」。そのような方向にむかう実践哲学であり、日本で陽明学と呼ばれたこの思想は、日本思想史に大きな影響を与えるとともに、日中の両国において、在野の儒学として継承されていったのです。

明衰亡から得るべき歴史的教訓

国家が文化の真の価値を認めないならば、始めからその根本を誤ることになります。

その点において明は、文化を政治的に利用する面ばかりが突出していて、文化そのものに学び、これを尊重する謙虚さは皆無でした。明衰亡の究極的原因は、外的要因は別にして、漢民族の王朝でありながらその伝統文化の価値観に背いたことにあります。

中国伝統文化は、為政者にとって、それを継承するに値する者であるかどうかを選ぶ厳格な試験であると言ってもよいでしょう。つまり文化が、その担い手たるものについて、資格の有無を厳しくテストするのです。

文化を尊重する為政者は、広く人民に尊敬されて国が平穏に治まり、名君として歴史に名を残します。

文化を尊重しない為政者は、暴力と腐敗にまみれ、暗黒政治のなかで闘争するばかりであり、やがてそれが必ず自らを滅ぼすことになります。

中国伝統文化の真髄を伝える神韻世界ツアーが、いま全世界の観客を魅了しています。しかし中国国内では、まだ神韻公演は実現していません。それは中国共産党が、神韻を恐れているからです。

中国共産党による統治が続く現在の中国で、なぜこれほど暴力と腐敗が蔓延するのか。その答えは明らかです。中国共産党が、中国伝統文化を尊重しない恐るべき暴君であるうえ、伝統文化をことごとく破壊し、「党文化」という偽文化によって今も中国国民を欺き続けているからです。中国共産党が神韻を恐れる理由は、まさにここにあるのです。

ただし、神韻のステージはどこまでも美しく、清らかな天上世界であり、一切の政治的要素もない純粋な芸術なのです。

日本の多くの観客にとっても、神韻は、忘れえぬ感動と日本復興への大きな力を与えてくれることでしょう。

(牧)